The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

ヘロデの不安

キリスト教会ではクリスマスの時期になると行事がたくさんありそれを準備する牧師や信徒の忙しさはピークに達します。わたしの教会では各年代クラスのクリスマス会やコンサート、特別礼拝、イブ礼拝、元旦礼拝と大忙しです。

 

世間一般でもクリスマスになるとトナカイさんやサンタクロース、恋人たちのロマンティックな時期になりウキウキする季節ではないでしょうか。クリスマスはキリスト教的にも世間的にも喜びながら迎えるものであることはうれしいことです。

 

よく「クリスマスである12月25日は実はイエス・キリストの誕生日ではない。」というトリビアが話されることが多いですが、わたしはなぜこの日にキリストの誕生を祝うようになったかの理由が好きです。出典は定かではありませんが私が所属する教会の牧師が言うにそれは冬至に設定されたというのです。イエス・キリストが誕生した正確な日にちを知る資料は何もなく、せめてこれから日が伸びてくる一番暗闇の長い冬至にそれは設定されたというのです。ゆっくりと闇が克服されていくようになる冬至にキリストという希望が突然煌々と輝くのではなく、日々の生活の中で気づかないようにしかし確かに増してくるキリストの恵み・栄光をよく表しているのがクリスマスであることを知りました。

 

クリスマスの物語は、世の中でも最も知られている聖書の物語の一つでありますが、聖書の中でそれが語られている箇所は少なく、四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中でも二つの福音書(マタイ、ルカ)が少しだけ語っているのみになります。当時のユダヤ民族の意識の中でその物語はそれほど重要視されていなかったのでしょうか。この一見メシアの誕生という喜びの物語は神が伝えたかった一番のメッセージだったのでしょうか。イエスの言動は常にその場にいた人々には理解できない形をとります。人間が想像するような段階を踏まないのです。その最たるものが、十字架の死、復活です。そのような、逆説的な神の振る舞いはこのクリスマス物語にも表れているように思えるのです。

 

エスヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。その時占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた・・・(マタイ2章1~3節)

 

この場面はイエスが生まれるということを当時の最新鋭の科学を駆使して知った学者たちである占星術学者たちが突き止めユダヤに探しに来ている場面で、その捜索の一環として当時ユダヤ領地を治めていたヘロデ王に伺いを立てている場面です。これを聞いたヘロデは自分に代わる権威が生まれることに異常な危機感を覚えるのでした。ヘロデ王ユダヤの王といってもローマ帝国と血の気の多いユダヤ人の間にいわば板挟みになっているような人物で、その出征はエドム人とローマ人の混血だといわれています。自分の地位を脅かすような危険分子は親戚身内問わず皆殺しにするような病的な精神を持つ王で、この後無差別にベツレヘム中の赤子を皆殺しにする狂気的な命令を下します。ヘロデ王は王として異常なまでに権力にしがみついたというよりかは、私にはどこにも足をつけることのできない彼の出生や、上からと下からの圧力の間にいることによる人間的な病理をヘロデ王には感じずにはいられません。

 

ここで聖書が語っているのは、イエスが生まれるということに不安を抱くヘロデ王の姿が現代の私たちにもダブるのではないか、ということではないかと思うのです。

 

私たちクリスチャンは「キリストがすべて」として生きることに人生の本来の姿を見出しますが、それを実践することは人間としての危機にもつながります。これまで生きてきた功績や楽しみ、自分の所有物、人間関係をすべて神の、そしてキリストの御前に差し出す(すべて手放し捨てるという意味ともまた違う)ことはなんと困難なことでしょう。人間の本質は自らを神として生きる「自分教」に走るのです。人間のまず最初に犯した罪はそこにありました(創世記3章)。聖書の分厚い歴史は人間の「自分教」への放蕩とそれを何度でも取り返そうとする父である神の物語が繰り返されているのです(ルカ15章)。ヨブは正しい人でしたがすべてが奪われました。しかし最後にはすべてが神の手の中にあることに圧倒的な納得をさせられるのです。奪われたものはヨブに返されることはなく苦難の理由も知らされることはありませんでしたが、「キリストがすべて」という心理に自分を差し出したのがヨブでした。神的現実を見たのです。

ヘロデは自分を核として生きてきた人生が救い主の誕生というニュースで脅かされました。また毎年クリスマスを迎えるクリスチャンもその脅威を前にするのです。しかし、ヨブのみた神的現実に気づき「ハレルヤ!」と大手を振って受け入れる野の花のような信仰者はなんと美しいのでしょうか。当時のヘロデには到底気づくことができない現実であり、私にも見ることのできない次元かのようにかすんでしまっています。

 

しかし、同時にここまで病んでしまったヘロデにも福音の小さなおとずれは届いていました。その後ヘロデが悔い改めたなどという記述があるはずもないのですが、ヘロデの時代にイエスがお生まれになったのはヘロデの病理にまで届こうとする福音の理解不能さがあります。福音とはそういうものでしょうか。ただ、イエスゴルゴダの丘で十字架にかかった時、悔い改めた強盗の側にも、イエスを罵った強盗の側にもイエスの十字架は同じように立っていたという事実だけが確かなのです。