The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

目に見えないもの

ブログを書く、というのはこれまで何度か挑戦したことはあるのですが自分の経験のなさと単純な文章力の欠如で往々にして三日坊主になってきた記憶しかありません。しかし、これまで初心者キリスト者として少ない頭ながらも自分なりに考えてみた事柄をFacebookに投稿してきたのですがそこにはインスタントに「いいね」が押され、それに過剰に反応してしまう自分の病的な姿をただただ見せられることしかありませんでした。ブログも同じようなものですがこっそりやれるのはブログかと思い立ちました。

 

わたしは2年ほど前にもともと通っていた教会に舞い戻りクリスチャン生活を送る中でテーマとして考えていることがあります。それは「キリスト教のリアリティ」ということです。こう聞くとキリスト教は数ある宗教の中の一つで作り話であることを前提としているような響きが感じられるのかもしれませんが、私自身は聖書に書かれている福音「良き知らせ」を本気で信じたいと願っています。信じたいと願っているのです。信じていますとはっきり言えない信仰心の薄いわたしの弱さがここにあります。しかし、神が人を堕落し得るように創造し、キリストのナラティブによって愛をすべての計画の成就として示されたという事実の前に人間の強さはもはや問題にならないのだと思って、強がって「信じています」と宣言することはしないでいるのです。

 

そのリアリティというものについて新約聖書の中で重要な示唆を与えてくれる箇所があります。それは使徒言行録7章、イエスの昇天後初めての殉教者ステファノがその死に際に見た光景にあります。

 

ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」といった。(使徒言行録7章55-56節)

 

ステファノは同胞のユダヤ人たちに殺意を向けられたき見たものは幻想でしょうか。それとも「リアル」だったのでしょうか。その後ステファノはそんなユダヤ人のために祈ります。

 

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)

 

ステファノは損得勘定を失い狂ったから今目の前で自分を殺そうとしている人々のために祈れたのでしょうか。わたしにはステファノが見たものこそこの世界の本当の次元だったからこそこのような祈りを神に向けることができたのだと思います。それはイエスの十字架上の叫びと同じものでした。(ルカによる福音書23章34節)

 

現在、わたしの教会を含む多くの教会で高齢化が進み新しく若者がキリスト教に興味を持って教会を訪れるということは減っているように思います。それは豊かになる生活の中で自分を神にすれば生きて行けるようになった世の中が影響しているのではないでしょうか。それは、バベルの塔を建てようとした人間の傲慢さの本質を今またここに繰り返しているだけなのだと思います。多くの若者が携帯電話を自分の体の一部のように持ち、多様化した趣味や価値観の中に自分の居場所を見出しそこに閉じこもります。目に見える物を神とし生きていくのはなんと楽でしょうか。せわしなく本質的にはいやされることのないこの社会で生きる中で「楽さ」は何よりも魅力的なのです。

 

かつてはキリスト教界の中だけでも学生運動がおこるような活発な時代(良くも悪くも)は現在見る影もありません。キリスト教は現代の若者にはどうしても「リアル」に移らないのです。

 

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことがわかるのです。(ヘブライ人への手紙11章3節)

 

目には見えない(少なくとも今の私の近眼な目では)次元によってこの世界は創造されました。それはこの世界が要らない汚れたもので、目に見えない次元が正しいとそういう単純な話でもなくただそれはN.T.ライトが言うには(「クリスチャンであるとは/あめんどう」参照)教会で、そこに集う一人一人の間でこの世界と一致するのだということです。

 

わたしたちはもうすでに見させられているその世界に目を開かせていただかなくてはなりません。