The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

脱万人救済説

すっかり冬も明け暖かい陽気に心も軽くなっているはずの季節、予想外にも雨や曇りの日が続き、いまだ肌寒さを感じている5月も中旬となりました。東京基督教大学に入学してすぐのころは手続きやオリエンテーションで頭がいっぱいになり学びのことに気持ちを向けることができなかったこともありましたが、一か月以上が経ち各授業にも慣れてきました。旧約聖書概論、新約聖書研究など、福音派の神学校ではありますがきわめて広く論理的・体系的な神学教育によって自分の中の基礎が形成されている実感があり期待以上の学びへの喜びがあります。

 

そんな中、私は福音派の神学校に入学した者として、避けては通れない問題に直面しています。それは、私の「万人救済説」へ偏る実存からの叫びにそうではない答えを見出すことです。私はこれまで、教義学や贖罪論などの研究・理解を怠ってきてしまった中で、自分の偏向した聖書の読み方が存在していることに気づいています。それは、福音主義信仰において許されることのない「自分の読みたいように聖書を読む」という営みであるのではないかとも思えるのです。しかし、私の中で万人救済説はあまりにも説得的に感じられます。実存をかけて、心から「そうでなくては困る」という自分の奥深いところからの呻きがあるのです。これは聖霊の導きか、それとも罪深い私の傲慢か。自分の傲慢さへの挑戦として、「脱万人救済説」を試みたいと思います。

 

 

・人間の信仰の危うさ

まず、なぜ私が実存から万人救済説に偏ってしまうのかという話です。東八幡キリスト教会の牧師でありNPO法人「抱撲」の理事長である奥田知志牧師は教会のHPに「『すべて』と『すでに』を告白する教会」と題して万人救済説を肯定するエッセイを寄稿しています。(東八幡キリスト教会HP:エッセイ2017年7月16日)古代キリスト教界において最大の教父と言われたオリゲネスもこれを唱えて晩年異端として排除されたことを引き合いに出しつつ、人間の意志や判断に救いの条件が付与されることに異義を唱えています。人間の「信じた」という告白にキリストの救いが影響され得るのかという問がそこにあります。これに私の心は深く共鳴してしまうのです。これまで、旧約時代において、弱い人間(イスラエルの民)は神に対して「信じる」と告白した後にすぐに裏切るというパターンを繰り返しながら歴史を歩んできました。果たして、最後の救いとしてご自身の独り子を捧げた神がまた同じようなパターンを繰り返すのでしょうか。これまで通り人間の応答を条件として救いを執行するのか。そもそも、「キリストがすべて」(コロサイ3:11)と言いながら人間の応答に最終的な救いの根拠があるのか。私は、この大いなる旧約のパターンの最後の成就としてキリストがあると考えています。深い人間と神の断絶の前に人は立ち得るのでしょうか。

 

「弟子たち、人間から神へ、あるいはキリストへの信仰の可能性は全く閉ざされたのです。これが受難物語の重要な一要素です。神と人間、神と世界のあいだの深い溝です」(松見俊)

 

救いの根拠はただ神の一方的な恵みであり、取引ではないと正当にも奥田牧師の言葉に納得してしまうのです。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)

 

 

・御言葉に見られる明らかな信仰の重要性

 

しかし、この説の前に最も大きな反証の壁となるものは前述の聖句と同じ書物(ヨハネによる福音書)に含まれる御言葉です。

 

「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)

 

「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネによる福音書6:40)

 

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネによる福音書17:3)

 

また、マタイの福音書にもイエス様が派遣した弟子たちが町で受け入れられなかった場合の裁きについて厳しく言及されています。

 

あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出ていくとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ10:14-15)

 

そして、キリスト教の基礎的な神学を記したローマの信徒への手紙でも以下のように信仰の絶対的必要性に言及しています。

 

「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(ローマの信徒への手紙4:24)

 

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマの信徒への手紙10:9)

 

理解の仕方⑴

この聖句について私が読み取った理解の仕方のひとつは、聖書の文字通り永遠の命を得るための条件としての信仰と信じない場合の永遠の刑罰を受け入れるが、決してそれを他者に適応させないという読み方です。ヨハネ3:16の御言葉も決して「そうであるから、死ぬ前にみんなに伝道して何とか救い出せ」という文脈で語られたのではなくニコデモ本人、ただ一人(そして読者)に語られたのです。誰もいない夜遅くに主イエスはニコデモに語りました。それはニコデモ自身の実存に一点集中させて語ったのではないでしょうか。決してニコデモが他者を裁くようになるために語ったメッセージではなかったはずです。

 

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(マタイによる福音書7:1)

 

裁き主は神おひとりで私たちは決してその裁きに与することはできないのです。

 

同じ神学校に所属する清め派に所属する先輩は私にこう話してくださいました。「イエス様が昇天された今、弟子となった私たちがそれ(裁きへの警告)を代わりに行うのだ」と。本当にそうでしょうか。神の国ではクリスチャンによる裁きがすべての人の救いになるのでしょうか。

 

理解の仕方⑵

二つ目に私が仮定した理解の仕方は、新約聖書に記載されている永遠の刑罰はすでにキリストによって贖われたというものです。最後の究極的な救いがキリストの十字架なのであれば、現在の終末期における全人類の罪もキリストが負ったという理解です。これも奥田牧師の語る「すべて」が「すでに」完了した、という理解と言えるかもしれません。キリストの救いは時間や空間を超越しうると考えます。実際、御子は天地万物の創造される前から存在していた方で、受肉によって時間と空間の中に取り込まれ、その業は十字架において全人的で全世界的なものになったというパラドックスこそキリストの救いの広さ奥深さではないでしょうか。すべてのものがすでに過去も未来もすべてを救われたのではないでしょうか。

 

「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(ローマ信徒への手紙5:11節)

 

「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(ローマ信徒への手紙5:18)

 

しかし、この理解の仕方には、神のストーリーがこれまで一直線的な時間の中で行われてきたことを無視する理解が含まれていると言えます。ユダヤ教の歴史は始めがあり終わりがあるもので、ヘレニズム的な永遠に時間は回り続けているという循環的時間概念からは完全に区別されます。その意味でやはりキリストの救いはイエス様が宣教を開始したその瞬間から後の時間(時代)に成就しつつあるという方が真実であると考えます。時間も神の造られた良きものです。

 

 

・ここまでの実存的結論

ここまでで、わたしは⑴と⑵の考えを突き合わせて実存に照らし、やはり「聖書の言葉通りに」理解する方に傾くしかないと思わされました。この二つのどちらに聖霊の導きがあるのか現段階で判断するとしたら⑴の福音派的信仰に依拠した考え方であると思います。聖書が語るそのままを読み取ろうとしたときに、永遠の命と永遠の刑罰の存在は否定できません。しかし、それは聖書によって語られた自分自身以外には誰にも語られていないということもまた事実です。「信じるものは救われる」これは聖書が語る真実です。そして、そこから当然導き出される「信じないものは永遠の刑罰へ」という明快な解は、聖書は語っていないと思うのです。この後者の解を導き出すことこそ聖書信仰から離れた飛躍ではないでしょうか。

 

・清め派の先輩からの提題~「火事の家の例え」~

先に登場した私に真剣に向き合ってくださった聖め派の先輩は、「地獄に行く人がいる(信じない者は永遠の刑罰へ)」ということを明確に認識する必要性として次のような例えを話してくださいました。

 

「二階建ての家が私の見えるところにあり、私はそれを外から見ている。その時、その家の二階には火事が広がり一階の住人は気づいていない。その時、なんとしてでも一階にいる住人にそれを伝え救わねばならない。たとえ、住人がこれ以上ない幸せそうな顔で過ごしているとしても戸を叩き警告しなくてはならない。」

 

この例えはクリスチャンが伝道するための動機としてはかなりインパクトがあるものであり、説得力があると言えるでしょう。「永遠の刑罰」への道が明らかとなった隣人を前にして今こそ救い出さねばなりません。勇敢にクリスチャンである私が救い出さねば…

 

ですがこの例えは大きな問題を二つ含んでいると思います。

 

  • その一つ目は、クリスチャンである私たちは他人の家の火事の前に、自分の家の火事に気付けていないということです。人の罪深さは燃える火のごとく、本来であれば一目見れば、また少しでも焦げたようなにおいを察知すれば気付けるはずの、そのくらい大きく明確なものです。しかし、自分の家の二階が燃えていることになぜ気付けず、人の家のことばかり見えるのでしょう。手元の火事に対処する前に他人の火事の対処をするのは理にかなっていません。(準備をしているうちに自分が火災に巻き込まれ元も子もありません)自分の内なる火事にも気づかないで他人の家の火事を正確にとらえることはできません。

 

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには顔と顔とを合わせて見ることになる。」(第一コリント13章12節)

 

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:3)

 

このように言うと、クリスチャンと非クリスチャンの区別性に着眼し、キリストを主と告白し救われた者は火事になるはずがない、と反論されると思います。しかし、果たしてそうでしょうか。キリストに救われた者は罪にもだえ苦しむことはなくなるのでしょうか。キリストがすべてを負ってくださったことに丸投げしあとはオールOKなのでしょうか。違うと思います。キリスト者となった私たちは燃え盛る自分の内的な火事に気付き、その十字架をキリストと共に負うのです。

 

「それから、弟子たちに言われた『私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」(マタイによる福音書16:24)

 

「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5:3)

 

その傷ついた、ぼろぼろに燃え焦げ朽ち果てた状態こそ「赦された」姿なのではないかと。そして、十字架を背負いついていくイエス様の後姿は、鞭うたれぼろぼろに傷ついた血だらけの背中です。その傷口からあふれ出る栄光を仰ぎ見るのです。燃え盛る炎は鎮火され、ぼろぼろになった自分の姿だけが残るのです。そこに「自分は救われ、それ以外は永遠の刑罰へ」と公に言い得る雄弁な自分の姿は残っていないのです。パウロもキリストに救われた後も現在形で自分が罪人であることを強調しました。

 

「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(テモテへの手紙Ⅰ 1:15)

 

  • また、火事の例えの二つ目の問題点は、キリストの救い、つまり福音は「グッドニュース」であるということです。喜びの、祝福のメッセージなのです。心から、ほっとする、シャローム(完全な平和)な響きを持ちます。そこには「お前の家は火事に燃えている!」という恐怖に陥れるような響きはありません。私が通う実習教会の牧師先生はそのことを正当にも「おいしいラーメン屋を見つけたら人に教えたくなるし、一緒に行きたくなるでしょ」という例えを話されました。「すごく安直な例で申し訳ないけど」と断りを入れて話されましたが、私は福音の本質を深いところで捉えていると感じます。キリストの救いはどこまで行っても喜びの便りであり、脅しではありえないのです。火事の例えよりもラーメン屋の例えにリアリティを感じるのは単に私がラーメン好きであるというだけではないと思います。

 

・二元論を一般化することの危険

聖め派の先輩の中にある二元的な考え(信じるものは救われ、そうでない者は永遠の刑罰へ 以下:二元論)に根差した信仰理解はいたってシンプルな、また明快な聖書からの読み取りです。この二元的理解は非常にわかりやすくとっつきやすいのです。しかし、このメッセージを単純に一般化するには聖書はあまりにも複雑なのです。教理としてこの二元論を一般化することに危機感を抱きます。聖書の言葉は徹底的に読む者の個人的救いに関与します。それは決して第三者が介入し裁くことで効力を発するものではないのです。(唯一、キリストの名による愛し合いにおいて第三者は介入を赦されています。)決して二元論や万人救済説という他者を裁定する一般化が適応されるレベルのものではないのが聖書という大いなる神の言葉の特性ではないでしょうか。

 

わたしは万人救済説を脱することができるとすれば、裁きは存在しそこでどう自分は告白するのか、それは永遠の命を得るための唯一の神への応答であるとしながらも、他者への裁定を徹底的に行わない、主に完全に委ねるという立場です。ヨハネ3章16節は徹底的に読む者、語られる者に直接語りかけるもので、取引的に提示される一般論ではないことを肝に銘じる必要があるのです。

 

 

・他者が地獄に落ちないように伝道するのか。

では、イエス様が昇天に際して弟子たちに宣教を命じた理由はどのようなものだったのでしょうか。一般化された二元論を念頭に置くとそれは、「他者を地獄に落とさないように救う働きを私たちは担っている」という動機が容易に連想されます。それは弱く死後の世界への不安が大きく感じられる現代日本人に対しては強いインパクトとなり、その地獄への道に対する恐怖を提示しながら一気に宣教を進めていくことができると思います。果たしてそれはイエス様が意図した弟子たちの振る舞い方・宣教姿勢なのでしょうか。奴隷のように主人からの刑罰を恐れるあまり信じることに追い込まれていく、そういう人間の姿を神は喜んでくださるのでしょうか。

 

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。(ローマ書8章15節)」

 

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れるものには愛が全うされていないからです。」(ヨハネの手紙Ⅰ 4:18)

 

私たちキリスト者は、決して他者にキリストの救いを伝えようとするときに、奴隷を服従させるような刑罰による恐怖で従わせるようなやり方をしてはならないと思います。救われる者は「神の子」とされるのです。それは神と人との心からの結合、実存的な和解、家族的な有機的な繋がりなのです。その前提として永遠の刑罰の恐怖からの脱出を交換条件として提示していいはずがないのです。どこまで行ってもキリストの救いは「グッドニュース」です。

 

・ブルンナーによる万人救済説への言及

カール・バルトと共に弁証法神学運動の草創期を担った新正統主義の代表的神学者であるエミール・ブルンナーはオリゲネスによって提唱された「万人救済説」を否定しつつ、同時にカルヴァンの唱える「二重予定説」へ危険性にも言及しています。

 

キリストにおいて救われた者と並んで、永遠にわたって神の御前から追放され、慰めなき災いにおいて永遠に、あらゆる死よりも悪い生を生きねばならない他の者たちが存在しているに違いないということを考えることは、気の重いことである。しかしこのことを考えるとということ、こうした光景をありありと描写して見せることが、万人救済説に代わるもう一つの選択であるなどと、いったい誰が言うであろうか。少なくともキリストにおける救いについて聖書は教えているが、聖書の教えは決して、この救いを受け入れない他の者に用意されているものを詳細に思い描くようわれわれに委ねられているわけではない。キリストの言葉はわれわれのための決断の言葉である。(ブルンナー著作集第二巻431頁)

 

聖書信仰に私は立っています。それは、「キリストの救い」そして「キリストがすべて」ということを信じる、それにすがるということです。そして、その神と私自身のあいだに他者がどうとか、何が一般論として正しいとか、そういう不純物は入るスキはありません。ここで正当にも強調されているように、聖書はただ「われわれのために」、神の前に一人立たされた自分自身の決断の言葉なのだということでしょう。

 

私自身は聖書の教理・神学をストレスのない明快な「解」として導き出そうとし「万人救済説」に心が向いてしまう誘惑に陥りました。そして、それは対極で明快な「解」として存在する「二重予定説」への実存から湧き出るアンチテーゼが根源となっているのです。しかし、両方の立場に立つ者がどちらにも倒れず明快な答えが出せないという極めてストレスのかかる状態でい続けること(これは対話という方法に近いと思います)、十字架を負い合うことを放棄したときに「真理」への道は閉ざされます。このストレスを感じ続けながら神学を行っていく営みを怠った時、奥田牧師がいう宗教組織による「救いの独占」がうまれ、腐敗していくのです。そうであるならば、皮肉にも、万人救済説というストレスのない明快な「解」に安住する奥田牧師の姿勢にはここで示唆されている「真理」への道を自ら断念していると言えるのです。

 

論理的帰結(ストレスのない明快な「解」)はただ二つの過ち、すなわち二重予定説か万人救済説に導きうるだけであり、そのどちらも信仰の決断の現実性を破棄してしまうからである。ただ、この論理的自己満足の理論形成を断念することだけが、真実なる決断に余地を作り出す。福音とはすなわち、われわれを決断の中に立たせる言葉に他ならない。(ブルンナー著作集第二巻431-432頁)

 

・私の変化

私はこの文章を、先に登場した清め派の先輩が悩んでいる私に真摯に向き合って対話を試みてくださった経験を記録に残すために書いています。その経験は私を砕くとともに再建へのきっかけを与えてくれました。なぜ私が聖書信仰を掲げる福音派の神学校に導かれたのか。それは、徹底的にただ自分の実存のみによって聖書に向き合え、ということの訓練であると思うのです。わたしが万人救済説へ淡い憧れを抱いてしまう思いもキリストは取り扱ってくださると分かったときに、大胆に聖書を本当の意味で「そのまま」に読むことができると信じています。ただ、聖書にそのままに表れているキリストがすべてであるということにただただ慰められる、その福音の微かな香りさえあれば生きていける、と思えます。