The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

白川静の絵本「サイのものがたり」(編・画 金子都美絵/平凡社)を読み始めました。

2006年に亡くなった日本の漢文学者・東洋学者の白川静の絵本「サイのものがたり」(編·絵 金子都美絵 平凡社)を読み始めました。ページをめくると数ぺージ読むだけで内から溢れでてくる霊的な喜びで満たされます。漢字に現れている深い一般恩寵としての霊性は、本来ロゴス的であるはずの言語が多分に感情や感覚から生まれる有機的な要素に水源を得ていることを思わされます。

 

私たちが普段なにげなく使っている、というか煩雑さを覚えながらも使っている漢字は永遠なるものを感受する人間の霊性から来る希求(縦線)と、それでも人間であることの罪深さに自己否定を繰り返す断絶(横線)の交差点の集合体、つまり十字架の集合体です。

まさに聖書全体を貫く永遠と断絶の繰り返し(創造、堕落、救い、堕落、、、)のストーリーが漢字を構成しているといえます。形は様々ですが十字架はどの漢字にも現れており、全てのものの内にキリストはおられる、ということでしょうか。

 

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(創世記28:16)

 

ヤコブは兄エサウから祝福を奪い取り、実の兄弟から本気の殺意を向けられ逃亡します。生まれた時から兄の踵をつかみ常に兄を出し抜こうとしている人生をヤコブは歩んできたのですから当然ともいえます。そんなどうしようもないヤコブは逃亡中ある場所で「横」になり眠る中で夢を見ました。天にまで達する「縦」にのびる階段を見たのです。自覚があったのかわかりませんが、どうしようもないヤコブの横になった姿と永遠へと続く縦の階段はここで交差しました。ここに天と地の重なり合う点があったのです。

 

「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記28章17節)

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