The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

私が福音派の神学校に入った理由

桜の季節がいつの間に過ぎ、肌寒さの残る早朝、夏に備えて葉をつけ始めた木々を窓越しにながめています。私がここ千葉県印西市に位置する東京基督教大学に入学してから二週間が経とうとしています。これまでの福祉職員として勤務し過ごしていた二年間の日々に比べると驚くほどの出会いや刺激に1日が千日のように感じられ、ゆっくりと濃い一週間を過ごしています。ここ東京基督教大学(以下TCU)にはおよそ180名ほどの「献身」を志したキリスト者が聖書を学ぶために集っています。大半は私より年下の若い献身者の群れです。クリスチャン人口の少ない日本にこれほど人生を主に捧げる若き意志が存在していることに主の御業の一端を驚きながら垣間見ています。

 

TCUは建学の精神の冒頭にも表れているように伝統的な福音主義信仰に基づいて教育がなされています。聖書を誤りのない神のことばと信じ、かつ信仰と生活の唯一の規範とする福音主義という立場は、日本バプテスト連盟の教会にこれまで所属していた私にとっては意識的に直面させられた「信仰選択」でありました。もともと、母教会では使徒信条を唱えたことはなく、聖書を文字通り読む(聖書の機械的霊感説)という営みをしてこなかった私にとって福音主義とは何なのかをここにきて明確に考えざるを得ませんでした。私の信仰は母教会の牧師(TCU卒業生)による霊的指導や牧会の現場に携わらせていただき形成されたもので、その信仰の立場がどこに立っているのかは曖昧なままでした。私の敬愛する母教会の牧師はこれを言ってはおこられるかもしれませんが説教を帰納的に構成することが多いと感じています。最初に教義に根差したテーマを提示しそれをほかの根拠を提示して論証していく(演繹的)というのではなくして、その時に与えられた課題や気づき、牧会的トピックを並列し説教者と会衆が一緒になって答えに向かって近づいていく(帰納的)のです。あくまで答えに向かって「近づいていく」のであって説教者はすべてを語りません。そして私の師は私に接するときも常に「一緒になって考えよう」と帰納的な関わりを求めてくださいました。そんな説教や師の関わりによって形成された私の信仰は、私の能力の不足で曖昧な立場から脱することはできなかったのかもしれません。ですが、TCU入学に際して検討した自分の立場を振り返ると、そういった「曖昧さ」は恵みとして受け取ることができるのではないかとも思うようになりました。それは、「確かなものはただ一つで、そのほかは朧気にしか見えていない。そして、曖昧さに全方位を囲まれている自分を自覚し続けること」の重要性を見出すことができたのです。それは「キリストがすべて(TCUのロゴマークに刻まれているコロサイ書3章11節の御言葉)」だということの気付きです。ただ、その一点が師や私の一番奥深いところで霊的な響きをもって鳴り続けているのです。通奏低音として響くキリストの姿は私自身の表面的なレベルにまででてくることはそう多くありません。核を囲む曖昧さは年を重ねるにつれ大樹の年輪のように厚くなっていくのでしょう。しかし、その通奏低音が外に漏れだす瞬間はやはり、人間の一番ささやかな愛の瞬間(The Little Sanctuary)、一番耳を澄ましたような瞬間にあふれ出すのではないでしょうか。そんなキリストの姿は私にとって個人的救いであり唯一の確かなものなのです。高音域は多重的に響くハーモニーの中で一番耳に残りやすい音域です。高音域にキリストの姿を響かせるキリスト者の姿に憧れと、負い目があることは否定できません。ですが、ハーモニーは高音域、中音域、低音域が絶妙な調和を見せたときに統一された音楽を造り出します。それは、福音派という立場が非常に広がりを持った立場であるということを示しています。それが、TCUの建学の精神の二つ目「超教派」であることの意味なのでしょう。私はこの福音派というハーモニーの中に私の立場、音域を見つけ出した、これが私が福音派である神学校に入学した理由のひとつです。

 

TCU入学試験では筆記試験のほかに面接が行われます。コロナ禍において対面でのやり取りを必要だと感じていた私にとっては、大学側が対面の入学試験にも対応していただいたことに感謝でした。面接において真剣に向き合ってくださった二人の教授は私に「キリストの十字架はあなた個人にとってどのような意味があったのですか」と問いました。私は口ごもりながら、私なりの「神の王国のリアリティ」を語りました。しかし、その答えは最初に問われた「個人的な贖罪理解」への回答の論点ずらしで正面からの回答を回避していたに過ぎない、そんな自分を見抜かれてしまった結果になったことは当然と言えます。真摯に向き合ってくださった教授の前に私は言葉を詰まらせました。これまで「神の王国」にリアリティを感じ慰めを得ていた私は自分の罪深さ、そしてそれを取り扱ってくださった神様の十字架におけるメッセ―ジを十分に受け取ってこなかったことに気づかされたのです。クリスチャンは神を個人的な心の安定剤として、天国に行くための切符発券機として利用しているのではないかという最近の神学者の問いかけに熱狂していた私は、神様の個人的なメッセージの深さを無視していたのだと思います。自分の中に巣作る罪は、本当に見えにくいのです。卑近な例で申し訳ないのですが、墨田区にある東京スカイツリーは日本で最も高さのある建造物です。遠くから眺めるときには暮れる夕日と東京の乱立する建造物とのコントラストが美しさを強調します。しかし、近くに寄れば寄るほどその全様は見ることができず、美しさは失われていきます。その「なんだかよくわからない」感覚だけが膨れ上がっていきます。罪もそのように自分の中にあるような近くから見た罪は見えにくいのです。これこそ人間の罪深さの本質でしょう。自分の立ち位置(マッピング)を見失いその果てに人は自分を神とします。(そしてバベルの塔は崩れ落ちました)

 

神学には福音主義に対して自由主義が存在します。史的イエスの探求を科学的歴史批判学的に検証し、信仰を必要とはしない絶対性の中で神を見出だそうとする営みは好奇心をそそるものです。ですが絶対性とは何なのでしょうか。信仰という軸をなくして検証される聖書は、見る人の視点で無限に乱反射します。それは先に挙げた「曖昧さ」というよりは「混沌」を意味します。そこには科学的歴史批評学的にとらえるだけでは地球を何度でも消滅させることができるほどの兵器を生み出す危険性と同じ不気味さがあると言えます。ただ、人に与えられた「永遠を思う心(コヘレトの言葉3章11節)」こそ本当の絶対性への感受性ではないでしょうか。それは聖書に一貫して流れる「ストーリー」としてまとまりをもった輝きを放ちます。

 

私はこの大学で「牧会」を志すものとして学びに召し出されました。この地に現れた天と地の重なり合う場所(それは教会にはとどまらず)に派遣され、その神の支配を多くの人の間にもたらしたい、そう思っています。神の国を延べ伝えたイエスキリストは一貫したストーリーの中を歩まれました。それは、ひたすら傷つき、弱くされ空っぽになった人々への慰めのストーリーでした。(マタイ5章八福)そこには史的に何が正しく考古学的に何が一番説得力があるのかというところに到達点はなくただ、弱くされ空っぽになった「小さき人」が十字架の前に深く納得することに重点があるのでしょう。そんなイエスのたどったストーリーの延長を歩かされるために、建学の精神に「実践神学主義」を掲げるTCUを選んだのです。

 

ここまで、福音派に身を置く私の内的理解について書きましたが、そういった内的統合はすでに起こった自分の姿を後から概観して見つけるものに過ぎないともいえます。私がここまで歩まされたのはどこまで行っても「成り行き」と言えるのかもしれません。そんなことを言ったら急に説得力がかけてしまうような気がしますが私がこう思えるようになったのも遠藤周作の自然体で語る入信の言葉が私の背中を押します。遠藤の母は遠藤が幼少期の頃、父親と離婚し傷心の中でカトリックのクリスチャンになります。そんな母をなぐさめたキリストへの信仰を遠藤は純粋に受け取ったに過ぎないと語ります。

 

私の場合は、自分の意志でなったんじゃないから、親がくれた許嫁みたいなのと結婚させられているんだから、こんなもの出て行けというような感じなんだけど、出て行けと言っても、向こうが出ていかん。女房みたいにね。居座っているような感じでした。(「私にとって神とは」P10、遠藤周作著、光文社)

 

遠藤は家が仏教なら仏教を信じていたとも言い切ります。その危うさの中それでも神は絶妙なセンスの人選で「選び」を実行します。イスラエルの祖アブラハムの父テラも、ウルの地で他の神々を拝み(ヨシュア記24章2節)アブラハムもそんな父の姿を見ていたことでしょう。アブラハムも一方的な契約によって、十分な神との対話もなく主に歩まされていたと言えます。

 

クリスチャン2世として生を受け、「羊を牧する人」にちなんでつけられた名前に無意識に感化されていたのかもしれません。思えば、大学や就職先を福祉の道に何気なく選んでいたのも両親の影響と言わざる負えませんし、神学校へと私を囲むすべてのものが用意されこの道に向かわせられていたと言えます。いわば自分はなく、私という空っぽの容器に神が「祝詞」を詰めてくださった、そう感じています。最近読み始めた漢文学白川静の言葉に、「サイ」(口の象形文字と思われていた)の本当の意味は神に祈りを捧げるために祝詞を入れる容器・装置なのではないかと言います。これは空っぽなら空っぽなほどその力は増すと言います。まさに、無的実存(小池辰雄)なるイエスキリストのどこまでも深い無の姿とも重なります。ただ、父なる神の御心を歩み無的存在になられたイエスキリストの姿こそ牧会者に求められる姿なのでしょう。

 

私の師にも自分が入学試験の面接で問われた「なぜ牧会を志すのか」という問いをぶつけました。「成り行きかな」と冗談でおっしゃったのかわかりませんが、そこにある深い霊性は聖書に一貫して流れる「一方的」な神の人への接し方の不思議な平安がありました。

 

「受け身の深さ」

その人をじっと見ていると、そこにその人がいないというか、消えているというかとにかくその人が破れてそこへ向かうから何かが差し込んできているような深い感じのする人がいます。思索の人、知性の人、教養の人にそれを感じるかというと、そうでもありません。むしろ愚鈍の身をいかんともし難く、迷い続けているような人に感じることが多いのです。心の内出血を支えられて生きているような人、その受け身の姿勢が深さを感じさせるのでしょう。人生において、受け身は弱さではありません。深さであります。「灰色の断想」P23、藤木正三著、ヨルダン社

 

「生かされて生きる」一方的な生き方は、深いところで無になっているか、と同義であるのでしょう。その姿こそ三位一体の神、コミュニケーション(双方的)の完全な形であるとは何とういう逆説でしょう。深い、低いところに流れる恵みを常に見落としてしまう私たちはいまだ完全な神の支配に伴うことはできません。

 

この水が流れるところでは、すべてのものが生き返る。(エゼキエル書47章9節)

 

 

 

 

TCUは福音派の神学校とはいってもすべての学生が宣教師や牧師を目指しているというわけではありません。すべての学生が「献身」の思いを持っているというのはこの大学の大切な特徴ですが、「献身」という言葉を「職業としての献身(直接献身と言われているようだ)」と規定していません。それは、本来的に正しいと思います。献身は立場や、社会的責任(職業)の表現として使われてしまうことが多いのですが、神の前にはそんな狭義のものであっては困るのではないでしょうか。「神」は立場だけを表す言葉ではありません。その物質的存在を表す言葉でもありません。特に、世界を支配する「働き」(熱)を通してその存在を知ります。神は「愛」ですと言われるように、そのコミュニケーションの中に存在が示されるのです。私たちは近代文明以降あまりにも存在を物質的・場所的に解釈してきました。そうではなく、存在の次元をもう一つ上げて「働き」として捉えるとさらに存在を力強く認識できるようになるのではないでしょうか。つまり、「献身」なるものは「働き」、もっと言えば「生き方」に意味が決定つけられるのではないでしょうか。

 

神はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と言われ…(出エジプト記3章14節)

 

わたしは最後に書いたように一方的な召しを用意され、そこを歩まされていると言えます。その途上にいる私は、エマオの途上における弟子たちのように失意の中でキリストを見出せない盲目さに葛藤してくことでしょう。ただ、低きに流れる十字架の水脈に何としても触れたい、今の渇きはそこにあるのだと思います。乾かない本当の水を求めて、お祈りください。

 

最後に、福音派とは「聖書を誤りなき神の言葉」と宣言することだと言えます。霊感において様々な見解が示されていることは明白です(機械的霊感/言語霊感/逐語霊感など)。その中において、実体としての「文字」の無誤を強調することの意味がどこまであるのかはまだ、無知な私には明確な答えはありません。しかし、「愛することにおいて」そのコミュニケーションにおいて、聖書を前にただただ沈黙し首を縦に振るしかない自分を見ます。霊感が実体や理性的なものだけではなくして「働き」において確かになる感受性がさらに与えられることを願うばかりです。