The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

永遠の命について~認知症の利用者さんを通して~

わたしは見習い介護職員として地元の身体障がい者施設で働かせてもらって2年目になります。もう、今年の4月で後輩が入ってきたにもかかわらず「見習い」であることから抜け出せていない現状に心苦しい思いがしますが自分の身の丈に合った立ち位置を歩むということもまた難しさがあるな、と感じています。
わたしが務めている施設は約50人の障がいを持った方々が共に生活するいわば「共同体」です。30代から70代の多世代の共同体です。わたしは教会に集うものとして「共同体」の理解を深めようと試みるものですが、ここでの福祉制度を中心においた山の奥にひっそりと建てられた施設共同体の中での気づき、発見がたくさんあります。
その中で最も重視している永遠の命(ゾーエー・アイオーニス)の理解について多くの気づきが与えられるのです。

わたしが働いている施設では夕飯後すぐに利用者さんをベッドに入床させる就寝介助おこないます。それを終えると日中は多くの利用者と介助者、専門職が行き来し騒がしかったユニットは嘘のように静まり返ります。日々騒がしく業務に追われるの中で支援者が見過ごしてきた利用者の小さな訴えが聞こえてくるのもこの夜の時間帯です。

ある夜、コールが鳴り続けています。コールが鳴っては消え、またコールが鳴っては消え、が絶え間ないのです。鳴らしているのは重度の認知症を患う60代の女性利用者でした。「あ、いつもの、、、」その方はいつも夜になるとコール頻回になる方でそのたびに女性スタッフが居室に伺い対応するのですがスタッフも多くなく手に負えなくなってしまうことが多いのです。男性スタッフが行っても何もできないのですが女性スタッフが対応できないタイミングだったのでわたしが居室に伺いました。「どうしたの~?」声をかけると「おなか痛いの、おなか痛いの…」と繰り返し小さな声でつぶやいています。「いま、女性スタッフ来てくれるからトイレもう少し待ってくださいね」と声掛けをして横で肩をポンポンたたきます。(わたしもたまたま業務に余裕があったのでそんなことをしてみたのですが)するとその方が「優しいね、優しいね…」と小さく繰り返しました。わたしは少し驚いて「そう?」と声をかけるとすぐに「おなか痛い、おなか痛い...」に戻ってしました。 その方がそのような反応をするとは正直意外でした。普段重度の認知症を患っているためそれをやると決めるとそれに向かって一直線で回りが見えなくなったり、視界に入った他利用者の給食を食べてしまったり、そういう姿が目に付いていたためこの方を人として見るというよりやはり障がい者として見ていました。この時も自分の要求(おなかが痛い)ということしかこの方の頭にはないと思っていました。ですがそこでわたしが横で肩をポンポン叩いたことに対して優しさを感じ取ったということに深い洞察を与えられたのです。

「しかし、ますます混乱していく感情の層の下には、認知症の猛威にもかかわらず、そのまま変わらずにあり続ける本当の自己がある。スピリチュアルな自己、超越する自己だ。これが園庭の草花の美しさを感じる『私』であり、神とつながる『私』であり、私の本質である魂なのである。」(「私は私になっていく~認知症とダンスを~」クリスティーン・ブライデン)

わたしは認知症とは自己を失っていく病気、アイデンティティクライシスが起きる、そういう理解をし、またこの方と接する中でも自制心を失い感情をコントロールできなくなるそういう「失ってく」病気であると思っていました。ですが、もしこの方の「優しいね、優しいね…」の言葉にある最後まで残る部分(それをわたしは「永遠の命」と呼びたい)があるのだとすればその病はただ「永遠の命」にただ忠実に生きるようになっていく霊的な過程なのだと思います。

わたしたちクリスチャンはコロナウイルスの脅威の下「命」について見過ごしてはいけない検討をする必要に迫られています。日々テレビに映し出される「命」を守るための対策、その日失われた「命」の数のカウンター、「命」を守るために犠牲にしなければならい優先順位の全体主義化。どうしてもわたしにはアダムとエバが神に逆らったときに変わってしまった「命」理解に依然とどまっているように感じます。わたしたちが本来求めるべき、そしてイエスキリストによって与えられた「永遠の命(ゾーエーアイオーニス)」について考えるとき、ほんとうに今回のような対応で合っていたのか、本当に礼拝を最後まで守れたのか(個人としてだけでなく教会員全体のかかわりとして)、一度考える機会としなければならないと感じます。わたしの職場にいる小さなイエス様が教会が考える命についての洞察を与えてくれるとは思いませんでした。

 

この一認知症の女性に見る永遠の命の断片は決して曖昧なものでもなく概念でもなく「優しいね」の一言に現れたわたしにとっての奇跡体験なのでした。

 

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1章4節)