The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

なぜモーセはヨルダン川を渡れなかったのか。  

 

現在、TCUに編入したての私は、聖書に関する基礎的な授業を中心に学生教員入り混じった形での交わりや様々な授業以外の霊的な刺激に日々学ばされています。最近では念願であった野菜作りを始めることができました。TCUには農業サークルがあり、小さい農園ではありますが土いじりを勉強の合間にできるのは何ともよい時間です。サークルの先輩方は初心者の私を優しく受け入れてくださったのですが、その勢いでなぜかいきなりリーダーに指名されたのは何かの間違いではないかと不思議に思いつつ、仲間との共同作業に心躍らされる日々です。トマトやキュウリの異常な成長のスピードを見ていると神の土に秘めた命の源を、手を土に汚すたびに感じることができます(大げさでしょうか)。

TCUの生活においては聖書を伴うということは必須のことではないでしょうか。毎日聖書を観念的に読むのではなく寮生活や、授業、教会実習すべてにおいて聖書を通して考え行動し葛藤するというすることが求められると実感しています。それは自らの聖書を実践できない罪深さに直面する日々であるということでしょう。聖書の「身読」ということが西洋のキリスト教文化に育った私自身僅かでもできているのかという問いの前にやはり無力だと言わざるを得ません。周囲では、オンラインの礼拝や集まっての祈祷、賛美の自粛もスタンダードになってきたように感じます。そんな状況に、私自身少しの痛みすら感じなくなってきている恐怖が体感的に日々私を襲います。礼拝は主イエスが弟子たちや罪人と囲んだ食卓(愛餐)に原型があり極めて「身体的」な営みであることに、あまりにも説教に比重を置いたプロテスタント教会は目を向けにくくなっているのではないかと一神学生は恐縮にも危惧しています。TCUでも感染症対策をしつつ寮生活と食事、入浴、また少しずつではありますが授業も対面での対応に戻りつつあります。礼拝や祈りというものもそれに先立って身体性を取り戻すべき営みであることは確かです。そんな葛藤の中で神学をすることには正直通常にはないキツさがあります。その葛藤やそれに伴う緊張感のあるコミュニケーションに目を背けず途上を歩めるよう祈っていく最中にあります。

 

さて、今学期では旧約聖書の授業でモーセ五書の通読を課題として課されているのですが、皆さんもお気付きのようにモーセ五書は速読ができるような安易な文体でもなければ内容でもありません。読みやすい物語の部分を凌駕する律法や規定文の数々に熟読を諦めた方々も多いのではないでしょうか。今回は私なりにじっくり数冊の注解書を傍らに置きながら難解とされるレビ記から意味を吟味しながら読んでいき、昨日やっとの思いで創世記から申命記の最後まで読了しました。やはり聖書は何度読んでも新しい発見があります。恵みとして新しく今回読んだ部分から私に語りかける聖書のテーマが与えられました。それは「モーセはなぜヨルダン川を渡れなかったのか」というテーマでした。殺人の過去を背負いながら逃避先で一生を過ごそうと思っていた老齢のモーセは、ただ神の一方的な召しによって、それも劇的な形で召し出され、六十万以上の奴隷の民イスラエルの解放を指導することになりました。イスラエルの「約束の地」カナンを目指して民は歩み始め四十年という月日をかけてモーセはその民を導くという勤めを果たそうとしていました。しかし、そんなモーセに神はあまりにも残酷な言葉をかけるのです。

 

主はモーセとアロンに向かって言われた。「…それゆえ、あなたたちはこの会衆をわたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数記20章12節)

 

民数記によると神のこの言葉の原因となった「メリバの水」事件はイスラエルの民が出エジプトしたその年から四十年を数える旅も終盤の頃であったと確かではありませんが推定することができます(民数記20・33章ミリアムとアロンが死んだ年)。それまで神と民の板挟みにあいながらも神に忠実に民を導いてきたモーセに対して、最後の最後で約束の地に入れない、つまり目標を達成できないと神は宣告するのです。神はこれまでモーセと顔と顔を突き合わせ時には激しい対話を繰り広げながらも共に歩んできた関係ではなかったのでしょうか。それに、聖書に記されるメリバの水事件の内容から、その他のどの罪にも勝る悪質性はそこまで感じられないのです。なぜ神はこの事件でモーセを見限ったのでしょうか。

 実は、この事件において誰に原因があったのか民数記申命記ではニュアンスが違います。

 

主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数記20章12節)

 

主は、あなたたちのゆえにわたしに対しても激しく憤って言われた。「あなたもそこに入ることはできない。(申命記1章37)

 

民数記では神がモーセモーセ自身の不信仰を、約束の地に入れない原因としています。しかし、申命記ではモーセが不信仰な民のゆえに、約束の地には入れないと語っているのです。この二つのニュアンスは見落としてしまいそうですが大きな違いではないでしょうか。神とモーセどちらの言葉を優先するのか、それは迷う必要はないのかもしれませんが、今回はモーセのこれまでの神への服従や、事件の内容と悪質性を照らし合わせると、そう簡単に見過ごすことはできないように感じます。この原因を考える上で一説として有名なのは、モーセは神に「岩に命じろ」と命じられていたのにもかかわらずモーセは自分の経験則から「岩を打って」しまった、そこにミステイクがあったという説明がなされます。確かにその説明には説得力がありますが、ではなぜモーセ申命記において自らの罪を認めないかのような訴えをするのでしょうか。この説明をふまえても直感的にモーセに同情してしまう自分がいます。しかし結局のところ、そこには神とモーセの間にあるより深い神の裁きと配慮が見えにくい形で存在しているのではないでしょうか。この真相は最後まで私たちには知りえないのかもしれません。主の前に自らの罪を示されるとき、それは第三者が客観的判断を下したり、裁けるような単純なやり取りで終始するわけがないのです。神と人間の間ではイエス・キリストを通して「隠れた事柄」を扱う大いなる裁きと配慮が行われるのです(ローマの信徒への手紙2章16節)。実際、モーセ福音書において主イエスと親密に語り合っていたとすべての共観福音書は語っています。(マルコ9章/マタイ17章/ルカ9章)モーセに語りかける主イエスの顔は冷酷な裁きを下す表情ではなかったはずです。神の、モーセに対するこの宣言には神の大いなる配慮と癒しのメッセージが隠されているといえないでしょうか。そして、そこから神の裁きに隠された意味についても検討することができる思います。そんな可能性に希望を抱きつつさらに検討していきます。

 

・大いなる納得を得たモーセ

モーセはそれまでのイスラエルの長としての過去を持ちながら最後の最後で神に目的の自己による達成の断念を言い渡されたことにどんな反応をしているのでしょうか。はじめてモーセへの神の残酷な宣告の記載がある民数記20章では神による宣告の記載があるだけでそれに対するモーセの応答は記載されていません。申命記1章においても同様です。モーセはこの宣告に黙って従ったのでしょうか。否、モーセ申命記の後の箇所においてそのことを願い出ているのです。

 

わたしは、そのとき主に祈り求めた。「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」(申命記3章24-25節)

 

この言葉がモーセから出されていることには人間らしいモーセの姿を見ているようで、私自身安心する気持ちがあります。やはりモーセはそれまでの民を率いてきた来し方や苦労、そして神との歩んできた記憶の中で、四十年来の目標であった「ヨルダンの川渡」を諦めねばならないのです。ここまで来て…なぜ… まだ二十余年しか生きていない私には想像できないほどのモーセの葛藤と落胆の前に沈黙させられます。齢百二十歳となったモーセのはらわたからの叫びに神は次のように答えます。

 

しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。…」(申命記3章26-27節)

 

モーセはしつこく神に願い出ていたのかもしれません。神はこのことについて怒り、憤り「もうよい」(新共同訳)「もう十分だ」(新改訳)と話を切り上げてしまうのです。しつこく神に懇願するイスラエルのリーダーの姿は創世記において重要な場面で描かれています。ソドムを滅ぼそうとした神とそれを宥めるアブラハム(創世記18章)、ヤボク川において祝福をもらうまで決して神から手を離さなかったヤコブ(創世記32章)。執拗な神への懇願は創世記においてターニングポイントとなり神の判断にさえ影響を及ぼしてきました。ではなぜモーセの懇願には神は取り合わなかったのでしょうか。

 

私は神が激しく憤りながら「もうよい」「もう十分だ」とモーセを突き放したように思える言葉に目が離せないのです。そこには人間らしく感情を露にしながらモーセと向き合う神の姿を見ると同時に、憤りの中においてでも神の大いなるモーセへの癒しのメッセージを読み取ることができるのではないでしょうか。神の「もうよい」という言葉には、解放の宣言があったと仮定できないでしょうか。モーセは神に召されてから民の要求に答え続け、神への深い忠実を示しながら四十年の旅路の達成を心待ちにしていました。それはどこか自分の一生を美しく終えたい、自分の権威を決定的なものにしたいという誘惑にモーセをもってしても囚われていたのではないでしょうか。そんな自己達成の思いに囚われていたモーセに神は「もういいんだよ」と「あなたへの恵みはわたし(神)だけで十分ではないか」と真の平安を伝えようとしていたのではないでしょうか。神の怒りに秘められて多層的であり一貫性のある両義性に気付かされます。目に見えるヨルダン川の向こうの肥沃なカナンの大地はモーセにとってあまりにも魅力的でした。神に代わるほどのモーセの目標、野望となっていたのかもしれません。「わたし(神)以外を求めることのむなしさ」を神もはらわたからモーセに叫び訴えていたのだと思います。

 

同じ問いかけを受け、神だけを求める根源的な生き方に静かに納得させられた信仰者が旧約聖書に何人か登場します。その一人としてアブラハムがいます。アブラハムは異教を信仰していたテラの一族から、モーセと同じように神に一方的に召し出されました。老齢になるまで神の契約(子孫を星のように繫栄させる)が遂行される兆しすら見せられず、徹底的に神を求めることにしか一生の目的を得られないような日々でした。しかし、根拠を持たなくともひたすら自らを空っぽにし、従順を示した時(大いなる納得の中に入れられたとき)アブラハムにはイサクが与えられました。だからこそ、モリヤの山における息子イサクの奉献の記事が創世記において異様な静けさを持ったのです。

 

その時、この物語を読む人にはほとんど信じがたいことが示されます。…これらのことの後、神はアブラハムを試みて彼にいわれた、「アブラハムよ」。彼は言った「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。この言葉が示す恐るべき内容は説明するまでもありません。それはいかなる理解も拒絶する不条理で、かつ非人間的な内容を持っております。けれども私は考えるに、心の一番底でアブラハムは、ああやっぱりそうかと思ったことと思います。そうでなければこの創世記の物語全体がわからなくなるのです。(「アブラハムの生涯」森有正/日本基督教団出版)

 

フランス文学者森有正はモリヤの山でのイサク奉献の記事が、その内容に対してあまりにも聖書に静的に描かれていることに目を留めます。ヤコブエサウとの再会場面や、ヨセフの兄弟との再会場面は非常に感情描写が豊かです。それなのにこの場面には誰の感情描写もありません。では、ここでは聖書記者が劇的な登場人物の感情や言行を省略して聖書に描いたのでしょうか。森はそうではなく、全き神への従順に生きたアブラハムにとって自己目標への希求など皆無であり事実どの登場人物においても静的な出来事であった、というのです。アブラハムはイサクが与えられたことすら自分のこととして喜ばなかった、と森は聖書にアブラハムの感情表現が書かれなかったことから意味を抽出するのです(これは少し誇張しすぎな気がしますが)。

 

また、ヨブはどうでしょうか。神から「正しい人」とお墨付きをもらいながらもすべてを奪われ、神に訴えたヨブ。ヨブほどに喪失や簒奪を経験した人物なら何か神からの報酬や回復がもたらされてもいいような気がします。しかし、ヨブが失った七人の子どもは最後まで帰ってくることはありませんでした。ただ、神の経綸に対して自らが決して到達できないという自覚を与えられることで大いなる納得と平安を得たのがヨブだったといえます。(ヨブ記38章2節)

 

モーセもこれらの旧約聖書の信仰者に見られる大いなる納得に導かれていったのではないでしょうか。目に見える物質的な目的から、それ以上の何かを神からの「もうよい」という叱責において得たのではないでしょうか。実際モーセはこの神の叱責と同時に命じられたヨシュアの任命を受け止めそれを遂行しました。モーセの内にアブラハムやヨブに与えられた大いなる納得と平安がもたらされたのでした。

 

この、物質的な目標からそれ以上の真理への希求にモーセの目的は変化しているということは、旧約聖書から新約聖書への変化にも重なります。カルヴァン旧約聖書新約聖書の連続性が問われていたことに対する弁証を語る中で、その連続性を表しながらその変化について以下の趣旨のことを語ります。

 

新約聖書は特に不可視の事物に関して旧約聖書よりもはるかに明晰である。旧約聖書には不可視で感知できる事物にとらわれる傾向があって、これが、そうしたものの背後にある不可視の目標や希望や価値を曖昧にしてしまう。カルヴァンはこの点を、カナンの地を例にとって説明する。旧約聖書には、この地上での所有がそれ自体で目的であるかのように見る傾向がある。ところが新約聖書はこれを天において信仰者のために用意されている将来の相続財産の反映と見る。(「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス

 

この大まかな説明においても旧約から新約への変化はモーセの内に起きている変化に重なる部分があるのではないかと思うのです。召された時のモーセは老齢であったためアブラハムのような従順からくる静けさにおいて誰よりも優れていたのかもしれません。しかし四十年の指導者としての歩みはあまりにも長すぎて、目に見える自己目標を掲げるには十分な年月でした。実際に得ようとしている蜜と乳の流れる大地にそれに近づけば近づくほどに心を躍らせたでしょう。しかし、モーセは始めに自分には何もないと思わされ嫌々ながら召されたその瞬間に、また神の怒りによって引き戻されたのです。モーセの内に物質的なものへの目線から、もっと高度なものへの目線の転換、つまり旧約から新約への転換が起きたのです。そんなモーセ新約聖書においても主イエスと語らうという重要な場面で再登場するのです。

 

モーセは自らの死がもたらされることを知ってか知らでか、約束の地をヨルダン川越しに臨むことができるネボ山を静かに登っていきます。その姿は、アブラハムがモリヤの山をイサクと静かに登った場面と重なります。その最中、聖書には描かれなかった二人の心にあったものは何だったのでしょうか。そして、ネボ山の頂に立ったモーセの目線の先にあったのはなんだったのでしょうか。それは、西に臨む到達しえなかった憧れの地をじっと眺めていたというよりは、これまで神と歩んできた足跡ともいえるシナイからの大地を眺め、思いを致していたのではないでしょうか。死ぬ直前モーセの心を支配していたのは、悔しさやむなしさではなく、神と共にあったことへの感謝と満たされた思いであったのではないでしょうか。私にはそう思えてなりません。

 

モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。(申命記34章1-3節)

 

そして、モーセはだれも知ることのない場所に葬られました(申命記34章6節)。モーセに自己達成の念を投影していた多くのイスラエルの人々にとって、自分の墓や骨がその後強い誘惑になることを自らの経験からモーセは察知していたのかもしれません。モーセは後に続く民に対しても、深い配慮を残しつつ神に従って死んだのでした。

 

主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。(申命記34章5節)

 

これが一神学生による危うい実存的読みです。モーセにおける一見理不尽とも思えるような神の取り扱いにそれを凌駕する神の秘められたご計画が伴わないことがあるでしょうか。アブラハムモーセ、ヨブに見る神への服従と静けさに私たちの生とそれにおける生活全体は沿うことができるのでしょうか。現代を生きる若いキリスト者同士が聖霊による取り扱いを受け、それを実現させていけるよう祈っていきたいと思わされます。

 

 

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晴天と新緑のコントラストに癒されて