The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

TCUコイノニア3分奨励~ヨブ記1章20.21節から~

2021/9/3コイノニア奨励

 

(祈り)愛する天の神様。今日コイノニアに一人一人を集めてくださって感謝します。それぞれの学びの上に、また生活の上に祝福をもたらしてくださいますように、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。  

 

 

始めに聖書をお読みいたします。ヨブ記1章20節~21節、新共同訳でお読みいたします。

 

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

 

私たちはコロナの世の中でどこからか聞こえてくる「命を守る行動を」というキャッチフレーズを繰り返し聞いています。そんな中ふと思わされたことがあります。「命」って何だろう、と。

 

そのキャッチフレーズに含まれている「命」という言葉のニュアンスは、どうしても医療や公衆衛生で守るような、つまり、人間の呼吸が止まらないようにする、心臓が止まらないようにする、そういったニュアンスのように聞こえます。実際ニュースのテロップには日々感染者数の数や重症者数の数が示され、それが私たちの命に関する最も優先される情報であるかのようです。

 

ですが、「命」とは本当にそういうものなのでしょうか。

 

ヨブは東の国一の大富豪でありましたが、サタンによって財産も家族も自らの健康も、みな奪われてしまいました。一瞬のうちにです。衣を裂き、地にひれ伏し、想像もつかない嘆きと葛藤を体験します。しかし、直後のヨブの言葉は驚くべきものでした。

 

「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

 

即座の神礼拝です!地上の財産、地上の家族、地上の自分の肉体、わたしたちが通常命のすべてだと思っているものが失われているにもかかわらず、天に開かれた「命」を生きたヨブはなおも変わらず神を礼拝し続けたのです。

 

ヨブにとって命とは完全に神のご支配の中にあり、礼拝をし続けるということに先立つ動機はなかったのではないでしょうか。

 

私たちは今、いままで行われていた教会での礼拝に制約を受けています。オンライン礼拝や、礼拝プログラムの短縮、賛美の自粛など。また、私たちの生活全体に及ぶ「礼拝」生活、すなわち、私たち神学生でいうならば充実した神学教育を受けることや寮生同士で同じ食卓を囲み談笑しながらご飯を食べること(礼拝の原型は愛餐です)、家族や友人との大事な時間を過ごすこと(旅行や外出)など様々なことが制約されています。私たちはそのことを「命の痛み」として十分に受け取り、取り組み、共有し、そこにともにいてくださる命である主イエスの御名によって祈り歩んでいきたいと思います。

 

(祈り)お祈りいたします。愛する天の神様。どうか礼拝に招かれた命を私たちが見失わず、コロナの世の中でイエス様の示された命を生きることができますように。どうか導きお守りください。このお祈りをイエスキリストの御名によってお祈りいたします。