The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

M先輩からの提題①

 

私が現在働いている身体障碍者の入所施設には、M先輩という先輩がいます。いつも、よい支援とはなにか、社会福祉とはなにか、ということだけではなく人生とはなにか、よい生き方とはなにかという哲学にも取り組んでいて、インテリかつパッションのある頼れる先輩です。そんなM先輩は私が宗教者であることを知っていて、様々な分野から宗教、特にキリスト教についての意見や疑問を投げかけてくれます。M先輩の様々な疑問・意見は無神論という確かな自覚の上に立ちながら、鋭い視点で宗教者として生きてる私に迫ります。しかし、そこにはキリスト教無神論というような二項対立はありません。お互い、探求の中にありながら、その途上で不確かさを抱えつつ、自分の立場と対になるものに触れていく作業には、コミュニケーションの基礎である「対話」の本質的姿勢があります。また、そのコミュニケーションはキリスト教の基本的な姿でもあるのではないでしょうか。

 

さて、いつもであればM先輩とのエキサイティングな意見交換は職場での短い空き時間や、息抜きとして持たれるお酒を交えた場で行われることが多く、その瞬間での自分の場違いな発言にいつも情けなさが伴います。今回は、少しやり方を変えて、拙いながらも文章でM先輩の提題を少しずつ考え、オープンに記していきたいと思っています。

 

M先輩の提題①―「ハイヤーパワー(自分のコントロールの外の力):神」とはなにか―

 

まず、M先輩は無神論という立場に確かに立脚しています。それは、世界が近代化を迎える中で人間が多くのものをコントロールし、創造し管理できるようになる技術革新に伴い主流となった思想ともいえます。近代前までは新生児は半数以上が成人になる前に死亡し、それを近代の医療は劇的に改善してきました。ここ200年の歴史の中で人間は「命」をコントロールできるようになったのです。それまでの世界では、とりわけ日本では「七五三」という文化に現れているように、新生児が三歳を迎え、五歳を迎え、七歳を迎えることを今では信じられないほど喜び祝ったのです。そして、神に感謝しました。自分たちの命がコントロールできない無力さは、自分の外にある力(神)に目線を向けさせます。どうすることもできない不条理を実感した時、神に願うのは人間の基本的な営みで、近代を経過してきた私たちよりも近代前の人々が神を強く意識しなければならなかったのは当然なのです。つまり、無神論という立場がいかに最近できた(近代化以降)新しいものであるかがわかります。私たちが当然と考えている無神論という立場は、実は歴史的には非常に特異で、更には現在においても世界的に特異なのです。つまり、近代日本に生を受けた私たちが当然だと感じている無神論的立場は、決して「普通」「中立」な立場ではないのです。

 

それを踏まえつつ、M先輩の最初の提題は、福祉業界とも接点のあるAA(アルコールアノニマス「匿名アルコール依存症者の会」)の取り組みの軸として提唱されている「回復への12ステップ」についてのものです。その依存症を改善するためのステップの中に、重要な要素として「ハイヤーパワー」つまり「自分を超えた大きな力」-神―の存在を認める、というものがあります。その、ハイヤーパワーつまり神の正体を無神論に立つM先輩はこう考えます。

 

ハイヤーパワー(自分のコントロールの外にある力:神)というものが人に影響を与えるという現象は、人間の自力の努力(自分のコントロールが及ぶ範囲)を前提としていて、そこにハイヤーパワーという「思考方法」を当てはめることで道徳的・効率的メリットが生まれる」(筆者による主旨要約)

 

というものです。確かに神を一つの「思考方法」「考え方」ととらえることは可能なのかもしれません。普通に生きていても生きていけるが、ハイヤーパワーの思考方法を利用することでもっと良い人生を歩める。そのような、ハイヤーパワー(神)を一つの対象物と捉え、人生のプラスアルファ的に考えるというのがM先輩のハイヤーパワーの理解でした。これは、よく朝のニュースで流れる占いを見て、結果が良かった時だけ信じる、というような状況に似ています。自分のコントロールの外側にある力「運気」「風水」などを選択的に人間のコントロールの補完的要素として利用するという考えです。これを「選択的宗教利用」と呼びましょう。

 

私は、このようなM先輩の「選択的宗教利用」の構造には無理が生じてしまうと考えています。それは実際にAAに参加する当事者一人一人の現状を見ても、またAAの大切な12ステップの第一ステップに目を移してもそれが鮮明に映し出されています。

 

【第一ステップ】私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。

 

AAにおいて回復におけるすべての前提に置かれるのは「自力の否定」なのです。それは、アルコールによって家庭や立場、愛する人や大切な時間を失ってきた、悲惨を味わった依存症者にしかわからない唯一の希望なのです。よく、依存症に対して言われるのは「根性では治らない」「依存症は怠惰ではなくて病気だ」という自分でコントロールが「できない」ものだという事実です。そういう、課題に直面した時、神(ハイヤーパワー)は初めてその人に実感を持って迫るのです。それは、決して自力を補完するような思考方法でも、人生をプラスアルファでよくする対象物でもありません。すべてを失い、自分の中に何も希望などないと分かった時、依存症者は初めて回復の一歩目を歩みだす、それがAAの12ステップなのです。この第一ステップを飛び越えて次のステップに行くことはできません。それはつまり、「選択的宗教利用」は許されないということです。自分でコントロールできる力をすべて失ったとき、つまり、自分ではコントロールできない力にすべてを委ねると決心したときに、はじめてAAのプロセスは動き出すのです。

 

それは、私がキリスト者として生きる理由にもつながっています。私は依存症の診断を医療機関で受けたことはありませんが(当人:スマホ依存症etc…)この、破滅的な自分や、資本主義経済、核世界、孤独、分断を目の当たりにし、この世界自体に、そして私自身の「自力」に希望が見出せない悲惨さを読み取ったからです。そして、子供のころから身を置いていたキリスト教の中に「神の国(天の国)」という一寸の希望の光を感じたのです。それは、世界経済や核問題など大きな規模を考えた時だけに感じるのではなく、大部分は福祉施設障碍者の方々と接するときの自分の愛の無さや、家族に対する自分の悲惨なコミュニケーションなどの非常に身近な自分を顧みて感じるのです。

 

すべてのAAに参加する人々にとって神が単なる思考方法ではない、とは言い切れません。しかし、少なくともAAが創設されたきっかけとなったのは、信仰によって断酒を実現したサッチャーという男と、それを最初は受け止められないながらも自身も「スピリチュアルな体験」によって断酒を実現したボブという男二人の出会いからであったということは確かなのです。

 

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである(マタイ5:3)」

 

アルコール依存症者は、このイエスの言葉にあるように、この地上で最も神の国に近い、真理に近づいた人々でもあるのです。本来人間は最も深いところでは自力ではどうしようもない悲惨さをみな共有しています。その、最も深いところにある悲惨さに気づいたとき、この世界の目的である「愛」についてのステップを歩みだすのです。「愛」とはつまりコミュニティ(共同体)、それはAAのミーティングでの当事者同士が互いを認め合い、弱さをさらけ出し合い、関わり合う姿に見られる「愛」です。この世界の鍵は「心貧しい人々」つまり、アルコール依存症者たちが握っているといっても過言ではないのです。

 

 

「たぶん神様は、信じる者たちが神に頼ることを、また地上にある神の共同体に頼ることを教えるために、ぼくたちアルコール依存症者を召しておられるのだと思う」(フィリップ・ヤンシー「深夜の教会」P18/あめんどう)