The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

ロスジェネ世代とキリスト教

ここ数年、クリスチャン二世であり神奈川県の一地域教会の役員を行うものとして、これからの宣教について、ふと考えることがあります。その中で、一つのキーワードであり、1996年生まれの私のアイデンティティでもある「ロストジェネレーション(以下:ロスジェネ)」世代についてこれからの福音伝道、および宣教を考えていきたいと思います。

 

社会の急成長という実感など想像もつかない私たちロスジェネ世代。自分の行動が社会を変えるなどという発想は夢にも思わない、そんな世代です。物心ついた頃からデフレ、不景気就職難、貧困、が騒がれていました。私の幼少期の印象深いニュースと言えば、テレビ画面の中でアメリカのビルに二機のジェット機が突っ込んでいく光景と、それに伴う人々の悲鳴、不景気による節約ブーム、東日本大震災、等々です。私たちはいつだって人生の失敗、借金、孤独などの危機を意識しながら、競走社会となんとか折り合いをつけて幼少期を歩んできました。それが、普通だと思っていました。「人生は甘くない」という強迫観念を常に抱いて。

 

最近は、どうやらもっと上の世代の人たちはそうではなかったということがわかってきました。もっと今より明るい(?)時代があった、そんなことをlo-fiミュージックや80年代のファッションが最近の流行になる中で少しずつ感じています。現代の若者は当時のきらびやかな、ポジティブなファッションに憧れを抱いているのです。

 

戦後、日本は発展途上国からの脱却を目指し、常に上昇を志向し、オリンピック開催や東京タワーを象徴として(朝鮮戦争という悲劇を背景として)、先進国と肩を並べ始めました。技術世界一という冠を身に付け、敗戦という重荷からの脱却に成功(?)、バブル景気を経験してきました。そのときの成長を肌身に感じてきた方々とのギャップに最近は少しずつ気づいてきたのです。

 

特に、多世代が、利害関係を越えて混じり会うはずの教会においてそれを感じるのです。

 

少し前までの教会は傾向として増勢、増築、増収入を目指して教会形成をしてきたのだと思います。数字に一発で反映される伝道の成果は、どの教会にとってもモチベーションになったのではないでしょうか。「〇年後までには〇百人礼拝!」と謳うことは教会をまとめるという意味でも、教会維持のモチベーションの面でも大きな意味を持ったことでしょう。しかし、ロスジェネを生きたわたしたちにはそのモチベーションが実感をもって継承されることはありません。私が所属する日本バプテスト連盟の教勢報告を読んでも教会数、信徒数、財政すべてが右肩下がりなのです。唯一増加しているのは召天者数の欄だけです。教会が面に見えて成長するということの価値が問われているのです。教会がなすべきことはかつての「成長」に憧れ続けることなのか、それともほかに何かできることがあるのか、問われています。

 

私の幼少期、教会で「伝道しましょう!」と教育されても、いざ同じ学校の友達を教会に誘おうとするときに「怪しまれる」という大きなハードルが常に恐怖を伴って存在していました。コミュニティを作り出すはずの教会が私にとってコミュニティの破壊につながるという矛盾を抱えていました。その背景には、国内宗教史的ロスジェネを決定的にした地下鉄サリン事件(1995年)の影響があるのだと思います。実際文化庁の宗教者年間推移を参照しても、その翌年1996年に大きな落ち込みを見せ、その後は緩やかに、しかし着実に宗教者数は減少しています。幼少期のクリスチャンであった私は宗教に対する社会の不信感の中で生きている実感を強く感じていました。

 

教会の中での世代のギャップに初めに気づいたのは「政治」に対する姿勢のギャップが50代60代の兄弟姉妹と私たちの間に多きく存在しているのがわかることでした。1960-70年にかけて安保闘争、学園闘争を繰り広げた上の世代に見られるような、実感を持った政治意識、感情や生活感をもって政治に参加するという意識はロスジェネ世代の私たちにはありません。50代60代の兄弟姉妹が政治に対して鼻息を荒くして語るのを、愛を持って受け止められないのです。これは私が所属する日本バプテスト連盟に特にみられるのではないでしょうか。

 

2年前の神奈川バプテスト連合が開催した修養会のテーマは「宣教のパラダイムシフト」でした。そんなサクセスエイジの宣教体制からロストエイジに対応する宣教体制になんとか移行しよう試行錯誤する上の世代の傍らで、ロスジェネ世代の私たちはなんだか肩透かしを食らうのです。そんな社会のパラダイムがシフトしていることは何年も前から、というか私たちは物心ついたころから完了していることを知っていて、時代錯誤な宣教体制の中にわたしたちは置かれ、今更移行しようと努力しているのか、という少しの失望感がありました。

 

少なくともロスジェネ世代の私たちは、自分達の宣教姿勢を自から構築する必要があるのです。パラダイムシフトをなんとか行おうとしている上の世代に合わせていては遅いのです。今を生きるロスジェネ世代の私たちは「ポスト・ロストジェネレーション」を内発的に作り上げることが期待されます。しかし、若者の内発性をもロスジェネは奪ったともいえます。時代が移行していく中で不変である福音への情熱がここでは重要になり、上の世代はその情熱の継承を新しい仕方でロスジェネ世代に行っていく必要があるのです。

 

具体的にはどんな宣教体制がポスト・ロスジェネを生み出すのでしょうか。私はやはり、これまでの「数字上の成長」を目指してきた増教勢志向から、教会に集う一人一人の命を「まるごと」抱えられるような教会形成が求められると考えています。教会は命の「宗教面」を専門に扱う場所ではなく「まるごと」(医療的・社会的・経済的etc..)扱う場所ではないでしょうか。私は、そんなことを現在通っているふじみキリスト教会の取り組みの近くにいさせてもらって思うのです。

 

至る面で「希望」をそがれたロスジェネ世代の私たちには、もはや教会しかないのではないかと思うのです。クリスチャンが地の塩(マタイ5章)として、教会が捕囚地での「ささやかな聖所(エゼキエル書11章)」となるためには「命まるごと」を扱う宣教へと向かっていくのではないでしょうか。