The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

2020年神奈川連合青年会標語「かかわり」について個人的に思うこと

今年度は初めて日本バプテスト連盟の神奈川連合青年会の役員をさせていただいているのですが、その中で今年の活動の指針というかテーマを決める作業がありました。教会でも年間標語を決めるのは毎年のことで、一年の指針を決める大切な仕事です。とはいっても連合青年会の業務の中でも比較的間接的な作業であまりテーマ決めに重きが置かれることは少ないような雰囲気があるのも確かです。ですがそういうあいまいな作業ばかりやる気が出てくるのが私の悪いところで、聖書箇所から決めたい、とか一般的な道徳的指針とは一緒になりたくないなど、いろいろ私なりに考えているうちに(いつの間に?)テーマが「かかわり」に決定っしていました。(新米役員の出る幕は限られています)私としてはなんだか聖書的ではないな、とかクリスチャンじゃなくてもテーマにしそうだな、とか天邪鬼精神むき出しの御託をいろいろ並べましたが(役員のみんなごめんなさい)、案外「かかわり」というテーマにもイエスキリストが示した大いなるメッセージがあるように感じたのです。ここで今一度「かかわり」という言葉について考えて見たいと思います。

 

① 関わりという語は聖書内では否定的な用法が多い。

まず、「かかわり」という言葉をコンコルダンスで引いてみます。すると…

・証言して言わねばならない。「我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。(申命記 21章7節)
・イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネによる福音書2章4節)
・世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。(コリントの信徒への手紙一7章31節)

なんだか全体的に「かかわりもない」とか「かかわらない」という否定的な用法で用いられることが多いように感じます。実際他にも聖書の中に「かかわり」という言葉は登場しますが、傾向としてはやはりそうなのです。それは、翻訳の際に意図されたのかはわかりませんが青年会としてそれをテーマにする以上このことについて考えなければなりません。

 

② 旧約の中で神は絶えず人間とのかかわりを行ってきたが、最後には人の罪深さのために徹底的にかかわりを拒絶する姿勢をとる。


神は創世記で天地を創造され、その被造物に対して自由と偶然があり得る余地を与えました。それは神の物語の目的(この世界の作られた理由)が「愛」にあるからだと私は思っています。完全なる神の支配の下、被造物である人間がロボットのように完全な愛(に似たもの)を神に帰したところで誰が喜ぶでしょうか。それは神のひとり芝居、創造性のない愛生産工場です。神はそうではなくて「かかわり」という手段で人間と相対しました。あくまで神は人間を対象とし「かかわる」ことで愛の物語を始められたのです。その結果、神は堕落した世に対し悔い悲しみます。(創世記6章)しかし、神はこれを経験してもなお、ノアというパートナーとのかかわりにおいてまた再スタートするのです。この神のかかわりに対する「繰り返す」「諦めない」姿勢には驚嘆します。そしてその「繰り返し」こそが旧約聖書の38巻になったのです。
旧約聖書の終盤、イスラエルの民がバビロンに捕囚として散らされたときついに神の悲痛な「かかわり」への苦しみを聞くのです。

彼らの汚れと背信にわたしは断固とした姿勢で臨み、彼らから顔を隠した。(エゼキエル書39章24節)

わたしはお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。(エゼキエル書5章10節)

神とかかわるということを拒否し続けてきた選民イスラエルに対し神は失望し「断絶」という最も深い裁きを宣言します。いつでも神は人間の傲慢にたいして「断絶」という手段をもって裁きを下してきました。その代表的なものはバベルの塔の物語です。人が神のように天まで届く塔を建てようとしたとき、神は人間がしゃべっている言葉をお互いに理解できなくさせ、その工事を失敗に陥れました。その再現がここでエゼキエルに預言されたのです。その預言はどのように実現したのでしょうか。

それはこの後の時代にイエスキリストが遣わされるところに答えがあります。

 

③ イエスキリストが経験した十字架での「断絶」によって私たちは「かかわり」合い一つとされる希望をいただいた。


エスキリストは神と最も深い「かかわり」を見せた人間でした。そこには天地創造を行いユダヤ人は正式な名前を口にすることも憚っていた神を「アッバ」(日本語では「お父ちゃん」というニュアンスがある)と呼んでいたのがイエスです。そんなイエスは神から遣わされた独り子として、神の性質を持ち人間と同じ姿で人間とかかわりました。イエスこそ神が見せた最も深いかかわりの現れでした。そして、イエスは十字架の上で旧約の預言者に預言された断絶を人間に代わって経験されたのです。

三時ごろイエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27章46節)

そして、神の性質であるイエスはその断絶と「死」に勝利し、すべての人をご自分のうちに一つにする「神の秘められた計画」(コロサイ1章27節)が遂行されたのです。

こうして時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソ1章11節)

そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリストにおいて一つだからです。(ガラテヤ3章28節)

わたしたちが「かかわり」という言葉を掲げるとき神が聖書の中で繰り返し行ってきた大いなる被造物への接し方をまず思い出さなければなりません。そして、私たちがどうかかわるかということよりキリストが人間の間に遣わされかかわってくださったことに不思議を感じながらその恵みの中を歩んでいければと思うのです。わたしたちはどこまで行ってもコミュニケーションに困難を覚え教会の中でさえかかわりに破綻が伴うことがあります。わたしたち人間のかかわりなどたかが知れているのかもしれません。ただ聖書に刻まれた聖霊による受け身なかかわりの恵みがそこにある、ということでしょうか。