The Little Sanctuary

彼らのためにささやかな聖所となった。(エゼキエル 11:16)

ささやかな聖所-The Little Sanctuary-


最近は旧約聖書を読むのを怠っているな、という気が起こり何となくエゼキエル書を読んでいます。神の想像しえないような御姿の描写や、谷の骨がカタカタと音を立てて蘇ったり印象的な場面が多くあるエゼキエル書ですが、そんな中でも今回はこんな一節に目がとまりました。

それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。「確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった」(エゼキエル書11章16節)

聖書は何度読んでも新しい発見があり、本当に素晴らしい文学です。以前は気にも留めなかった表現も違った状況で読むと新しい息吹を感じさせられるのは霊的な書物である証拠です。今回では、この「ささやかな聖所」という言葉に惹かれました。神はそれまでのイスラエルの民の背信に対して諸外国からの侵略と捕囚、離散をもって裁きを与えます。そんな中でイスラエル預言者エゼキエルにこの言葉は預けられました。ここで言われる「ささやかな聖所」とは何なのでしょう。フランシスコ会の口語訳聖書の解説には「神殿のない捕囚地における神の現存を述べる」と注釈が加えられてあります。ですが注釈を加えなくてはならないくらいですからハッキリ意味が解るわけでもありません。「神殿」というのは「神の現存」ということでしょう。ではなぜ「ささやか」なのでしょう。捕囚地で辛酸をなめさせられているイスラエルの民はエゼキエルが初めに魅せられたような圧倒的な神の御姿をもって神の権限を期待したのではないでしょうか。その「ささやかさ」にはなにか意味があるのでしょうか。

 

・訳すかが危ういような語句「ささやかな」

 

私の手元にある聖書を開くと新共同訳とフランシスコ会口語訳には「ささやかな」という言葉が記されていて、新改訳、文語訳には「ささやかな」が省かれているのです。原文から読み解くことはしませんが、訳す指針の違いで省略されてしまうような危うい表現であることがここからわかります。またNew American Bible-Revised Edition-では「The Little Sanctuary」と訳されています。そもそも日本人が使う「ささやかな」とは小さい、細かい、粗末なという意味合いがあり英語の「little」という言葉とよくリンクしています。神は捕囚の中にあった自らの愛する民の中に小さく、細かく、粗末にそれでも聖所として共にあったということでしょう。


・神が選んだのは最もささやかだった国「イスラエル」であった。


そもそも、神が愛し選んだ民族イスラエルは最もささやかな国でした。

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(申命記7章7節)

神はこの世界を愛の物語として始められるとき、主人公に選んだのは最も貧弱な民族でした。神は自分の助けがなければ生きていけないような、そんな民族や人物を好んで用いられるのです。それは、人が一人では生きていけないように設計された神の性質や傾向をうかがい知ることができます。(創世記2章18節)徹底期に「かかわり」の神だということでしょう。聖書にある「罪(ハマルティア)」もこの意味が本来の意味です。罪とはあれをしてはいけないとかこれをしてはならないとか、法律のようないくつもある禁止項目ではなく、たった一つ、「神とのかかわりを拒絶する」ということ、その的外れさが罪の本質であるのです。ささやかさとはその的外れを避けるための態度だといえます。

 

・イエスキリストのささやかさ。

 

神は「ささやかさ」を好まれます。ということは「神の本音」(出典:K牧師)であるイエスキリストもささやかであったといえるでしょう。まず、人間として生まれるということが究極のささやかさではないでしょうか。わたしたちとしては、神にはどうしても超越的な存在でいてほしいものです。困ったことは何でも解決してくれるスーパーマンのように。しかし、神は人間にご自分のささやかな性質を表すことで愛を示されたのです。赤子としてヨセフの両腕にだかれその生涯をスタートし、両親の助けを得ながら成長し、死刑囚としてヨセフ(アリマタヤの)に両腕に抱かれ死んでいくのです。初めから最後まで人間の腕に抱かれて生きて死んだ、そんな神があるでしょうか!人間は神を必要とするのは当然ですが、神もまた人間を必要とするのです。なんという不思議でしょうか。
 また、イエスは宣教を始めるまでの30年間も自分の家族を養うために決してエリートとは言えない大工というささやかな仕事をして過ごしました。そして、宣教が始まったとしても熱狂的になる弟子たちや群衆に対しても少し冷めたところから景色を見ています。(イエスは奇跡を行ったことを口外しないよう諫めたり、一人静けさの中で祈ることを大切にされた)
 そしてイエスの生涯は十字架という最も小さい者とされることに集約されていくのです。仰々しく神が神らしくあることを拒まれました。(それは罪深い人間がイエスに投げかけた言葉でした)

 そして、復活にもささやかさがあります。それは、復活されたイエスは時の権力者にこれ見よがしに表れるのではなく、自分を信じる弟子たちだけに姿を変えたりしながら現れたということです。(ルカ24章16節、ヨハネ21章4節)映像技術や情報伝達技術が発達し、だれがどう見ても復活が起こったことを証明できるような現代にイエスが時を定めなかったのもこのささやかさが関係しているのでしょう。

 

・イエスは常にささやかな生活の中にいらっしゃる。


わたしはこのブログのタイトルを「神的現実」としていろいろ考えてきました。現代人が本当のリアルであるキリストをどうやったらリアルに感じることができうるのだろうと。これまでキリスト教は派手な集会を開いたり、神聖さを感じるような芸術を作ったり、いろいろな手法がとられ素晴らしい宣教の形がたくさんあるのだと思います。しかし、現代人が一番リアルに感じる分野はやはり「日常」「ささやかなひと時」なのではないかと思うのです。そして、福祉施設で人の着替えや排せつ、食事に関わらせてもらう自分としては、やはりそういう何でもない人のあたりまえの動作、瞬間にこそ「ささやかな聖所」「イエスの顕在」「インマヌエル」があるように思うのです。恥ずかしい話ですが、体に障害を持った方々の身の回りのお手伝いをするとき、時間に追われたり、体力がなくなってきたりすると愛のない受け答えをしたり、横着したりしてしまうことが本当に多いのです。油断すると見過ごしてしまうような愛のなさにこそ本当の罪深さがあるし、そういうささやかな愛し合いこそ最も尊く難しいと思わされています。イエスが弟子の足を洗うことを「愛する」ということの表現として用いた理由を身に感じさせられています。

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25章40節)

 

・藤木正三「嫌なこと」


藤木正三という牧師の断層の中にこんな断層があります。

嫌なこと
信仰を持たない人から受ける結婚式や葬式の依頼。なぜ、信仰なしに生きている平素の姿の中でその人生の厳粛さを受け止めないのであろう。なぜ、平素の生き方と全く関係のない、むしろ無視しているようなものに、人生の大事を装わせるのであろう。なぜ、そういう時に浮かぶ人間を超えたものへの思いを、平素の生き方の中に追求しないのであろう。不真面目というよりは、生きることへのその粗雑さが悲しい。ついでにもう一つ嫌なこと。結婚式の最中に、新郎に感激のあまり泣かれること。純情というよりは、男として未熟。(「灰色の断層」63頁、ヨルダン社

最後の結婚式で泣くことについては置いておくとして、ここでいう「平素の生き方」を丁寧に神にゆだねることなくして、結婚式や葬式、また私たちクリスチャンでは毎週の礼拝を粗雑に扱うことになるのでしょう。そういう意味ではわたしは毎週の礼拝を日常と同じテンションで、同じ平常心で捧げていきたいと願うのです。これからのキリスト教宣教の可能性を「日常」「生活」「生と死」に見ていきたいとも思います。

 


 

神が捕囚の民に語られた「ささやかな聖所」は現代のわたしたちにも語られているのだと強く感じます。離散させられた先で、それは逆境の中だけでなく私たちの平素の生き方の中で、職場で、家族の中で、何でもない日々の中で、インマヌエル、神はともにいてくださる、ということなのだと思います。


最後に最近流れてきたFBの文章で同じようなことを語った投稿で共有されていた聖書箇所をここにも記させていただきます。

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎていかれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(列王記上19章11節から12節)

2020年神奈川連合青年会標語「かかわり」について個人的に思うこと

今年度は初めて日本バプテスト連盟の神奈川連合青年会の役員をさせていただいているのですが、その中で今年の活動の指針というかテーマを決める作業がありました。教会でも年間標語を決めるのは毎年のことで、一年の指針を決める大切な仕事です。とはいっても連合青年会の業務の中でも比較的間接的な作業であまりテーマ決めに重きが置かれることは少ないような雰囲気があるのも確かです。ですがそういうあいまいな作業ばかりやる気が出てくるのが私の悪いところで、聖書箇所から決めたい、とか一般的な道徳的指針とは一緒になりたくないなど、いろいろ私なりに考えているうちに(いつの間に?)テーマが「かかわり」に決定っしていました。(新米役員の出る幕は限られています)私としてはなんだか聖書的ではないな、とかクリスチャンじゃなくてもテーマにしそうだな、とか天邪鬼精神むき出しの御託をいろいろ並べましたが(役員のみんなごめんなさい)、案外「かかわり」というテーマにもイエスキリストが示した大いなるメッセージがあるように感じたのです。ここで今一度「かかわり」という言葉について考えて見たいと思います。

 

① 関わりという語は聖書内では否定的な用法が多い。

まず、「かかわり」という言葉をコンコルダンスで引いてみます。すると…

・証言して言わねばならない。「我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。(申命記 21章7節)
・イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネによる福音書2章4節)
・世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。(コリントの信徒への手紙一7章31節)

なんだか全体的に「かかわりもない」とか「かかわらない」という否定的な用法で用いられることが多いように感じます。実際他にも聖書の中に「かかわり」という言葉は登場しますが、傾向としてはやはりそうなのです。それは、翻訳の際に意図されたのかはわかりませんが青年会としてそれをテーマにする以上このことについて考えなければなりません。

 

② 旧約の中で神は絶えず人間とのかかわりを行ってきたが、最後には人の罪深さのために徹底的にかかわりを拒絶する姿勢をとる。


神は創世記で天地を創造され、その被造物に対して自由と偶然があり得る余地を与えました。それは神の物語の目的(この世界の作られた理由)が「愛」にあるからだと私は思っています。完全なる神の支配の下、被造物である人間がロボットのように完全な愛(に似たもの)を神に帰したところで誰が喜ぶでしょうか。それは神のひとり芝居、創造性のない愛生産工場です。神はそうではなくて「かかわり」という手段で人間と相対しました。あくまで神は人間を対象とし「かかわる」ことで愛の物語を始められたのです。その結果、神は堕落した世に対し悔い悲しみます。(創世記6章)しかし、神はこれを経験してもなお、ノアというパートナーとのかかわりにおいてまた再スタートするのです。この神のかかわりに対する「繰り返す」「諦めない」姿勢には驚嘆します。そしてその「繰り返し」こそが旧約聖書の38巻になったのです。
旧約聖書の終盤、イスラエルの民がバビロンに捕囚として散らされたときついに神の悲痛な「かかわり」への苦しみを聞くのです。

彼らの汚れと背信にわたしは断固とした姿勢で臨み、彼らから顔を隠した。(エゼキエル書39章24節)

わたしはお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。(エゼキエル書5章10節)

神とかかわるということを拒否し続けてきた選民イスラエルに対し神は失望し「断絶」という最も深い裁きを宣言します。いつでも神は人間の傲慢にたいして「断絶」という手段をもって裁きを下してきました。その代表的なものはバベルの塔の物語です。人が神のように天まで届く塔を建てようとしたとき、神は人間がしゃべっている言葉をお互いに理解できなくさせ、その工事を失敗に陥れました。その再現がここでエゼキエルに預言されたのです。その預言はどのように実現したのでしょうか。

それはこの後の時代にイエスキリストが遣わされるところに答えがあります。

 

③ イエスキリストが経験した十字架での「断絶」によって私たちは「かかわり」合い一つとされる希望をいただいた。


エスキリストは神と最も深い「かかわり」を見せた人間でした。そこには天地創造を行いユダヤ人は正式な名前を口にすることも憚っていた神を「アッバ」(日本語では「お父ちゃん」というニュアンスがある)と呼んでいたのがイエスです。そんなイエスは神から遣わされた独り子として、神の性質を持ち人間と同じ姿で人間とかかわりました。イエスこそ神が見せた最も深いかかわりの現れでした。そして、イエスは十字架の上で旧約の預言者に預言された断絶を人間に代わって経験されたのです。

三時ごろイエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27章46節)

そして、神の性質であるイエスはその断絶と「死」に勝利し、すべての人をご自分のうちに一つにする「神の秘められた計画」(コロサイ1章27節)が遂行されたのです。

こうして時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソ1章11節)

そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリストにおいて一つだからです。(ガラテヤ3章28節)

わたしたちが「かかわり」という言葉を掲げるとき神が聖書の中で繰り返し行ってきた大いなる被造物への接し方をまず思い出さなければなりません。そして、私たちがどうかかわるかということよりキリストが人間の間に遣わされかかわってくださったことに不思議を感じながらその恵みの中を歩んでいければと思うのです。わたしたちはどこまで行ってもコミュニケーションに困難を覚え教会の中でさえかかわりに破綻が伴うことがあります。わたしたち人間のかかわりなどたかが知れているのかもしれません。ただ聖書に刻まれた聖霊による受け身なかかわりの恵みがそこにある、ということでしょうか。

 

永遠の命について~認知症の利用者さんを通して~

わたしは見習い介護職員として地元の身体障がい者施設で働かせてもらって2年目になります。もう、今年の4月で後輩が入ってきたにもかかわらず「見習い」であることから抜け出せていない現状に心苦しい思いがしますが自分の身の丈に合った立ち位置を歩むということもまた難しさがあるな、と感じています。
わたしが務めている施設は約50人の障がいを持った方々が共に生活するいわば「共同体」です。30代から70代の多世代の共同体です。わたしは教会に集うものとして「共同体」の理解を深めようと試みるものですが、ここでの福祉制度を中心においた山の奥にひっそりと建てられた施設共同体の中での気づき、発見がたくさんあります。
その中で最も重視している永遠の命(ゾーエー・アイオーニス)の理解について多くの気づきが与えられるのです。

わたしが働いている施設では夕飯後すぐに利用者さんをベッドに入床させる就寝介助おこないます。それを終えると日中は多くの利用者と介助者、専門職が行き来し騒がしかったユニットは嘘のように静まり返ります。日々騒がしく業務に追われるの中で支援者が見過ごしてきた利用者の小さな訴えが聞こえてくるのもこの夜の時間帯です。

ある夜、コールが鳴り続けています。コールが鳴っては消え、またコールが鳴っては消え、が絶え間ないのです。鳴らしているのは重度の認知症を患う60代の女性利用者でした。「あ、いつもの、、、」その方はいつも夜になるとコール頻回になる方でそのたびに女性スタッフが居室に伺い対応するのですがスタッフも多くなく手に負えなくなってしまうことが多いのです。男性スタッフが行っても何もできないのですが女性スタッフが対応できないタイミングだったのでわたしが居室に伺いました。「どうしたの~?」声をかけると「おなか痛いの、おなか痛いの…」と繰り返し小さな声でつぶやいています。「いま、女性スタッフ来てくれるからトイレもう少し待ってくださいね」と声掛けをして横で肩をポンポンたたきます。(わたしもたまたま業務に余裕があったのでそんなことをしてみたのですが)するとその方が「優しいね、優しいね…」と小さく繰り返しました。わたしは少し驚いて「そう?」と声をかけるとすぐに「おなか痛い、おなか痛い...」に戻ってしました。 その方がそのような反応をするとは正直意外でした。普段重度の認知症を患っているためそれをやると決めるとそれに向かって一直線で回りが見えなくなったり、視界に入った他利用者の給食を食べてしまったり、そういう姿が目に付いていたためこの方を人として見るというよりやはり障がい者として見ていました。この時も自分の要求(おなかが痛い)ということしかこの方の頭にはないと思っていました。ですがそこでわたしが横で肩をポンポン叩いたことに対して優しさを感じ取ったということに深い洞察を与えられたのです。

「しかし、ますます混乱していく感情の層の下には、認知症の猛威にもかかわらず、そのまま変わらずにあり続ける本当の自己がある。スピリチュアルな自己、超越する自己だ。これが園庭の草花の美しさを感じる『私』であり、神とつながる『私』であり、私の本質である魂なのである。」(「私は私になっていく~認知症とダンスを~」クリスティーン・ブライデン)

わたしは認知症とは自己を失っていく病気、アイデンティティクライシスが起きる、そういう理解をし、またこの方と接する中でも自制心を失い感情をコントロールできなくなるそういう「失ってく」病気であると思っていました。ですが、もしこの方の「優しいね、優しいね…」の言葉にある最後まで残る部分(それをわたしは「永遠の命」と呼びたい)があるのだとすればその病はただ「永遠の命」にただ忠実に生きるようになっていく霊的な過程なのだと思います。

わたしたちクリスチャンはコロナウイルスの脅威の下「命」について見過ごしてはいけない検討をする必要に迫られています。日々テレビに映し出される「命」を守るための対策、その日失われた「命」の数のカウンター、「命」を守るために犠牲にしなければならい優先順位の全体主義化。どうしてもわたしにはアダムとエバが神に逆らったときに変わってしまった「命」理解に依然とどまっているように感じます。わたしたちが本来求めるべき、そしてイエスキリストによって与えられた「永遠の命(ゾーエーアイオーニス)」について考えるとき、ほんとうに今回のような対応で合っていたのか、本当に礼拝を最後まで守れたのか(個人としてだけでなく教会員全体のかかわりとして)、一度考える機会としなければならないと感じます。わたしの職場にいる小さなイエス様が教会が考える命についての洞察を与えてくれるとは思いませんでした。

 

この一認知症の女性に見る永遠の命の断片は決して曖昧なものでもなく概念でもなく「優しいね」の一言に現れたわたしにとっての奇跡体験なのでした。

 

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1章4節)

ヘロデの不安

キリスト教会ではクリスマスの時期になると行事がたくさんありそれを準備する牧師や信徒の忙しさはピークに達します。わたしの教会では各年代クラスのクリスマス会やコンサート、特別礼拝、イブ礼拝、元旦礼拝と大忙しです。

 

世間一般でもクリスマスになるとトナカイさんやサンタクロース、恋人たちのロマンティックな時期になりウキウキする季節ではないでしょうか。クリスマスはキリスト教的にも世間的にも喜びながら迎えるものであることはうれしいことです。

 

よく「クリスマスである12月25日は実はイエス・キリストの誕生日ではない。」というトリビアが話されることが多いですが、わたしはなぜこの日にキリストの誕生を祝うようになったかの理由が好きです。出典は定かではありませんが私が所属する教会の牧師が言うにそれは冬至に設定されたというのです。イエス・キリストが誕生した正確な日にちを知る資料は何もなく、せめてこれから日が伸びてくる一番暗闇の長い冬至にそれは設定されたというのです。ゆっくりと闇が克服されていくようになる冬至にキリストという希望が突然煌々と輝くのではなく、日々の生活の中で気づかないようにしかし確かに増してくるキリストの恵み・栄光をよく表しているのがクリスマスであることを知りました。

 

クリスマスの物語は、世の中でも最も知られている聖書の物語の一つでありますが、聖書の中でそれが語られている箇所は少なく、四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中でも二つの福音書(マタイ、ルカ)が少しだけ語っているのみになります。当時のユダヤ民族の意識の中でその物語はそれほど重要視されていなかったのでしょうか。この一見メシアの誕生という喜びの物語は神が伝えたかった一番のメッセージだったのでしょうか。イエスの言動は常にその場にいた人々には理解できない形をとります。人間が想像するような段階を踏まないのです。その最たるものが、十字架の死、復活です。そのような、逆説的な神の振る舞いはこのクリスマス物語にも表れているように思えるのです。

 

エスヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。その時占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた・・・(マタイ2章1~3節)

 

この場面はイエスが生まれるということを当時の最新鋭の科学を駆使して知った学者たちである占星術学者たちが突き止めユダヤに探しに来ている場面で、その捜索の一環として当時ユダヤ領地を治めていたヘロデ王に伺いを立てている場面です。これを聞いたヘロデは自分に代わる権威が生まれることに異常な危機感を覚えるのでした。ヘロデ王ユダヤの王といってもローマ帝国と血の気の多いユダヤ人の間にいわば板挟みになっているような人物で、その出征はエドム人とローマ人の混血だといわれています。自分の地位を脅かすような危険分子は親戚身内問わず皆殺しにするような病的な精神を持つ王で、この後無差別にベツレヘム中の赤子を皆殺しにする狂気的な命令を下します。ヘロデ王は王として異常なまでに権力にしがみついたというよりかは、私にはどこにも足をつけることのできない彼の出生や、上からと下からの圧力の間にいることによる人間的な病理をヘロデ王には感じずにはいられません。

 

ここで聖書が語っているのは、イエスが生まれるということに不安を抱くヘロデ王の姿が現代の私たちにもダブるのではないか、ということではないかと思うのです。

 

私たちクリスチャンは「キリストがすべて」として生きることに人生の本来の姿を見出しますが、それを実践することは人間としての危機にもつながります。これまで生きてきた功績や楽しみ、自分の所有物、人間関係をすべて神の、そしてキリストの御前に差し出す(すべて手放し捨てるという意味ともまた違う)ことはなんと困難なことでしょう。人間の本質は自らを神として生きる「自分教」に走るのです。人間のまず最初に犯した罪はそこにありました(創世記3章)。聖書の分厚い歴史は人間の「自分教」への放蕩とそれを何度でも取り返そうとする父である神の物語が繰り返されているのです(ルカ15章)。ヨブは正しい人でしたがすべてが奪われました。しかし最後にはすべてが神の手の中にあることに圧倒的な納得をさせられるのです。奪われたものはヨブに返されることはなく苦難の理由も知らされることはありませんでしたが、「キリストがすべて」という心理に自分を差し出したのがヨブでした。神的現実を見たのです。

ヘロデは自分を核として生きてきた人生が救い主の誕生というニュースで脅かされました。また毎年クリスマスを迎えるクリスチャンもその脅威を前にするのです。しかし、ヨブのみた神的現実に気づき「ハレルヤ!」と大手を振って受け入れる野の花のような信仰者はなんと美しいのでしょうか。当時のヘロデには到底気づくことができない現実であり、私にも見ることのできない次元かのようにかすんでしまっています。

 

しかし、同時にここまで病んでしまったヘロデにも福音の小さなおとずれは届いていました。その後ヘロデが悔い改めたなどという記述があるはずもないのですが、ヘロデの時代にイエスがお生まれになったのはヘロデの病理にまで届こうとする福音の理解不能さがあります。福音とはそういうものでしょうか。ただ、イエスゴルゴダの丘で十字架にかかった時、悔い改めた強盗の側にも、イエスを罵った強盗の側にもイエスの十字架は同じように立っていたという事実だけが確かなのです。

 

 

目に見えないもの

ブログを書く、というのはこれまで何度か挑戦したことはあるのですが自分の経験のなさと単純な文章力の欠如で往々にして三日坊主になってきた記憶しかありません。しかし、これまで初心者キリスト者として少ない頭ながらも自分なりに考えてみた事柄をFacebookに投稿してきたのですがそこにはインスタントに「いいね」が押され、それに過剰に反応してしまう自分の病的な姿をただただ見せられることしかありませんでした。ブログも同じようなものですがこっそりやれるのはブログかと思い立ちました。

 

わたしは2年ほど前にもともと通っていた教会に舞い戻りクリスチャン生活を送る中でテーマとして考えていることがあります。それは「キリスト教のリアリティ」ということです。こう聞くとキリスト教は数ある宗教の中の一つで作り話であることを前提としているような響きが感じられるのかもしれませんが、私自身は聖書に書かれている福音「良き知らせ」を本気で信じたいと願っています。信じたいと願っているのです。信じていますとはっきり言えない信仰心の薄いわたしの弱さがここにあります。しかし、神が人を堕落し得るように創造し、キリストのナラティブによって愛をすべての計画の成就として示されたという事実の前に人間の強さはもはや問題にならないのだと思って、強がって「信じています」と宣言することはしないでいるのです。

 

そのリアリティというものについて新約聖書の中で重要な示唆を与えてくれる箇所があります。それは使徒言行録7章、イエスの昇天後初めての殉教者ステファノがその死に際に見た光景にあります。

 

ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」といった。(使徒言行録7章55-56節)

 

ステファノは同胞のユダヤ人たちに殺意を向けられたき見たものは幻想でしょうか。それとも「リアル」だったのでしょうか。その後ステファノはそんなユダヤ人のために祈ります。

 

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)

 

ステファノは損得勘定を失い狂ったから今目の前で自分を殺そうとしている人々のために祈れたのでしょうか。わたしにはステファノが見たものこそこの世界の本当の次元だったからこそこのような祈りを神に向けることができたのだと思います。それはイエスの十字架上の叫びと同じものでした。(ルカによる福音書23章34節)

 

現在、わたしの教会を含む多くの教会で高齢化が進み新しく若者がキリスト教に興味を持って教会を訪れるということは減っているように思います。それは豊かになる生活の中で自分を神にすれば生きて行けるようになった世の中が影響しているのではないでしょうか。それは、バベルの塔を建てようとした人間の傲慢さの本質を今またここに繰り返しているだけなのだと思います。多くの若者が携帯電話を自分の体の一部のように持ち、多様化した趣味や価値観の中に自分の居場所を見出しそこに閉じこもります。目に見える物を神とし生きていくのはなんと楽でしょうか。せわしなく本質的にはいやされることのないこの社会で生きる中で「楽さ」は何よりも魅力的なのです。

 

かつてはキリスト教界の中だけでも学生運動がおこるような活発な時代(良くも悪くも)は現在見る影もありません。キリスト教は現代の若者にはどうしても「リアル」に移らないのです。

 

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことがわかるのです。(ヘブライ人への手紙11章3節)

 

目には見えない(少なくとも今の私の近眼な目では)次元によってこの世界は創造されました。それはこの世界が要らない汚れたもので、目に見えない次元が正しいとそういう単純な話でもなくただそれはN.T.ライトが言うには(「クリスチャンであるとは/あめんどう」参照)教会で、そこに集う一人一人の間でこの世界と一致するのだということです。

 

わたしたちはもうすでに見させられているその世界に目を開かせていただかなくてはなりません。